織田信長は1534年(天文3年)、尾張で生まれ、後に那古野(現在の名古屋市)で育ちました。父、信秀と長年、敵対していた美濃の国の戦国大名・斉藤道三との和睦が成立すると、その娘、濃姫と結婚。15歳と14歳の若いカップルでした。幼少時からの奇妙な行動や格好で、今で言う不良、大ばか者と見られていた信長の才能と器量を見抜いた道三は、信長を大いに応援。1556年、実子の斉藤義龍との戦いで戦死する際に、美濃の国を信長に譲るという遺書をしたためました。これを大義名分にして、信長は斉藤義龍とその息子・龍興が支配していた美濃を討ち取り(1567年)平定。その居城だった稲葉山城を岐阜城と改めて、入城しました。
道三塚(写真提供:岐阜市)
家来が主君を裏切る下克上がはびこった戦国時代。兄弟同士が敵対することは珍しいことではありませんでした。信長も実の弟(どうもこの弟の方が出来が良いと家臣から思われていたようで、弟も何度か兄を裏切って自分が家を継ごうとしたり…)を殺し、父親の主君筋に当る織田一門の本家を追放し、1559年頃には尾張国の支配権を握って尾張統一を果たしました。さらに1560年、尾張へ10倍の大軍で攻め込んできた今川義元を雨の中、陣の背後からの奇襲で破り(桶狭間の戦いとして有名)、天下に轟いたその勢いで妻の甥にあたる斉藤龍興から美濃を奪って支配下に置き、尾張・美濃の2カ国の大名に。この時、信長33歳でした。
道三の菩提寺、常在寺(写真提供:岐阜市)
信長が岐阜に入ったのは34歳の時でした。天下統一のためには、どうしても欲しかった岐阜城。これをステップに大志を果たさんとする信長は課税を免除した楽市楽座を設け、城下の経済を活性化させます。また、この頃から文書に有名な「天下布武」の印章を使い始めました。『武』という漢字は、戦いを止めるという意味を持っており、戦功を固めて戦争をやめる。つまり国を平定し、世の名を平和にしたいという信長の天下統一への意欲と理想を表していました。楽市楽座のおかげで、全国から人やものが集まり、大いに賑わった当時の町数は44町からなり、今も大工町、材木町、米屋町、竹屋町などの町名が残っています。
岐阜城遠景
当時の岐阜城はどんな感じだったのでしょう。岐阜城を訪れたポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスの著書「日本史」によれば、登城途中に大勢の若者が見張りとなって守る大きな砦があり、城の入り口には大きな広間が3つ、その先には金色の屏風で飾られた豪華な部屋がいくつもあったそうです。『眺望はすばらしく、城内の道はとても険しい』…そんな記述もあるようですが、天守閣の姿はよく分かっていません。建築には凝り性の信長、小さいながら立派な景観だったのではないでしょうか。復元された天守へのアプローチは、今はロープウエイがあるので、かなり楽になっています。往時と同じ、広大な濃尾平野を蛇行する長良川を見ながら、ここから天下統一をめざした信長の気分を味わってみませんか!
長良川を臨む城と市街地の遠景
金華山の麓に築かれた信長の居館。4階建てで、1階が舞台のような大広間、2階は美しい襖で区切られた家族の居室があり、3階は茶室。4階からは岐阜の町並みが一望のもとに。この館に招かれたフロイスは、巨大な石垣や『劇場のごとき大きな家屋』を、ギリシャのクレタ島に栄えた古代文明の迷宮のようだと表現しています。また、白砂が敷き詰められた池には美しい魚が泳いでおり、池の中の小島には花が咲き乱れていたと、詳しく記録しています。岐阜公園内にある信長居館跡で、往時に想いを馳せてみませんか。
岐阜公園総合案内所
(写真提供:岐阜市)
岐阜公園内にある信長居館跡
(写真提供:岐阜市)
1576年、将来の飛躍に備え、近江の安土に城を築いて移った信長は、岐阜城を長男・信忠に与えて尾張・美濃両国を支配させました。戦で数々の手柄を立てた信忠は、信長の後継者としての地位を確立。信長の天下統一事業も長年の宿敵だった石山本願寺を1580年、甲斐の武田氏を1582年に滅ぼして、ほぼ達成と思われたのですが…。その年の5月、備中高松城(今の岡山市)の毛利勢と戦っていた秀吉から救援の求めを受けて、信長は29日に安土城を発って上洛し、本能寺に宿泊。そこが終焉の地となりました。6月2日の未明、家臣の明智光秀の謀反によって自刃しました。
信長親子の供養塔(墓)
信長のお墓は京都の本能寺、大徳寺をはじめ全国で20箇所近くあるといわれています。岐阜市内の崇福寺もその一つ。ここには光秀の謀反によって信長と共に命を落とした長男・信忠の供養塔もあります。信長が書いた書や肖像画などゆかりの品々も多く残っており、これは信長の側室であった小倉鍋(お鍋の方)が本能寺の変の直後、信長の遺品を岐阜に持ち帰り、信長が岐阜時代に祈願所としていた崇福寺に位牌と共に納めたからです。お鍋の方は信長との間に3人の子を成しており、信長の晩年を支えた賢夫人と伝えられています。崇福寺では毎年10月第一土曜日に「ぎふ信長まつり」に合わせて追悼式が行われていますが、信長親子だけでなくお鍋の方にも手を合わせたくなる気がしませんか。
菩提寺・崇福寺(写真提供:岐阜市)
天下統一の土台を築いた信長の業績は、後世においてどのように評価されているのでしょう。「絵本太閤記」等で庶民に親しまれた豊臣秀吉に比べると、江戸時代の人々にはあまり人気がなかったようです。明治以降は勤皇家として評価され、戦後は政治の改革者としてのイメージが強まり、1990年代に入ると西洋に先駆けた発想や先進性が改めて注目されています。小説、芝居に描かれる回数は数えようもなく、俳優が一度は演じてみたい人物としても高得点。もし信長がもっと長生きをしていたら…。その後の日本はどんなふうになったのでしょうか。信長の姪、茶々によって秀吉の後継者が、茶々の妹、江によって徳川家の代々にも織田の血が流れていったことを思うと、信長はやはり天下を制した、そんな気がしてきます。
崇福寺に所蔵されている信長の書
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織田信長の偉業を偲び、毎年10月の第一土曜日と翌日に開催。崇福寺での追悼式や、メインストリートでの武者行列、音楽隊パレードなど華やかなイベントに、毎年、多くの人が集まります。
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名水百選にも選ばれた長良川の夏の風物詩。1300年の歴史を持つ。期間は5月11日から10月15日まで。
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地元の和紙と竹を使用した、暦を表す巨大数字行灯(1月~12月)12個と来年の干支の行灯を屋形船に載せ、長良川に流すイベント。冬至の夜に開催。
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標高329m。期間限定で夜間までオープンした岐阜城から、360度のパノラマ夜景が楽しめます。市街地に広がるイルミネーションの銀河のようなきらめきは圧巻。
※当ページは一定の調査を元に制作をしておりますが、歴史認識と人物評価には多様な考え方があるため、異なる認識をお持ちの場合にはご了承ください。