ここが天下の分かれ目!岐阜県関ケ原町で繰り広げられた関ケ原の合戦

皆さん、歴史年表の語呂合わせは憶えていますか?今から400年以上昔のことですが、日本のど真ん中に位置する岐阜県で、戦国大名たちが「天下を1600(トロオー)」と争った出来事とは何でしょう?そう、歴史の教科書にも必ず登場する「1600年、関ケ原の合戦」は、これに勝った徳川家康が後に江戸幕府を開いたことから、文字通り「天下分け目」の戦いといわれるようになりました。「1600(ヒトムレ)を分けた関ケ原」なんていうのもありますが、現在でも人口8千人ほどの岐阜県関ケ原町に、東軍、西軍合わせて16万もの兵が集結し戦ったそうですから、その混乱ぶりは想像を絶しますね。それでは、1600年頃の日本にしばしタイムスリップしながら戦国史のクライマックスを飾る「関ケ原の合戦」についてご紹介しましょう。

その1 関ケ原の合戦は、どうして起こったの?
その2 石田三成はあまり人気がない人だったって本当?
その3 徳川家康は、どうして『たぬきおやじ』と呼ばれていたの?
その4 関ケ原の合戦を最初に仕掛けたのは、家康? 三成?
その5 西軍の総大将は、どうして石田三成じゃなかったの?
その6 家康率いる東軍より、三成側の西軍の方が有利だったって本当?
その7 家康が考えていた秘策とは、一体どんなものだったの?
その8 家康の本陣めがけて突入してきた西軍武将がいるって本当?
その9 天下分け目の合戦は、わずか6時間で決着したって本当?
番外編 関ケ原古戦場跡には現在、何が残っているの?

その1 関ケ原の合戦は、どうして起こったの?

きっかけは合戦の2年前、天下統一を成し遂げ、関白の地位にまで上りつめた豊臣秀吉の死が原因です。絶対的な権力者がいなくなった後は、当然、次にトップの座を狙う者が現れますよね。権力レースにまず名乗りを上げたのが、当時、秀吉に次いでナンバー2の大大名だった徳川家康。その家康に対して、「いや、秀吉の跡取り息子である豊臣秀頼を立てるべきだ」と主張したのが、秀吉に可愛がられて豊臣政権の運営を任されていた石田三成です。関ケ原の合戦は、この徳川家康と石田三成を中心に、どちら側に味方するのかという選択を全国の大名たちに迫りながら繰り広げられた、まさに天下を二分する戦いだったんですね。

関ケ原合戦図屏風(六曲一隻)
関ケ原合戦図屏風(六曲一隻)
幕末の頃の作とされる屏風。合戦時の関ケ原一帯の様子が描かれ、その混乱ぶりがうかがえます。(関ケ原町歴史民俗資料館蔵)

その2 石田三成はあまり人気がない人だったって本当?

石田三成というのは、ものすごく頭の切れる人で、その能力を秀吉に買われ、豊臣政権内でのトップ、今でいう官房長官ぐらいの地位を得ました。反面、戦下手で、どちらかというと事務官僚として能力を発揮した人です。一方、当時は戦国時代ですから、秀吉は戦争の時に力を発揮する強い武将たちも家来として抱えていました。いったん戦になれば、三成も事務官僚とはいえ武将ですから、戦地には赴きますが、誰がどれくらい活躍したかなどを秀吉に報告するのが主な役目でした。汗水垂らして戦場を駆け回ったのに、三成から評価されず、秀吉にいい報告をあげてもらえなかった武将たちの多くが、三成を嫌っていたんですね。

東軍に攻め込まれる石田三成の陣
東軍に攻め込まれる石田三成の陣
豊臣家に仕えた武将の多くが東軍に付き、西軍の指揮を振るう三成の陣をめがけて攻め込みました。『関ケ原合戦図屏風』より(関ケ原町歴史民俗資料館蔵)

その3 徳川家康は、どうして『たぬきおやじ』と呼ばれていたの?

豊臣秀吉が死んだとき、家康は「秀頼に対して忠誠を尽くす」と言っていたのに、秀吉が死ぬとすぐ、豊臣政権では禁じられていた大名同士の結婚や、領地の取引を勝手に行うようになりました。家康のこうした行動を三成は非難しますが、前述のように三成を嫌っていた武将たちは家康側に付いて、豊臣政権は分裂状態になり、ついに『三成暗殺計画』にまで発展してしまうのです! 危機を察した三成は、なんと家康の屋敷に逃げ込みます。敵の懐にわざわざ飛び込んでいく三成も三成ですが、家康はさらに余裕しゃくしゃくで三成を保護し、領地まで送り届けて、「しばらく自分の城にこもっていなさい」と説いたそうです。すべてにおいて、人のやることの上をいく家康の言動を評して、『たぬきおやじ』と呼んだのでしょうね。

東軍を指揮した徳川家康の陣
東軍を指揮した徳川家康の陣
東軍は家康を中心に結束していました。『関ケ原合戦図屏風』(関ケ原町歴史民俗資料館蔵)でも、東軍側の武将たちが、続々と家康の陣に戦況報告に訪れている様子が描かれています。

その4 関ケ原の合戦を最初に仕掛けたのは、家康? 三成?

表面的な行動だけ見れば、合戦を最初に仕掛けたのは三成です。秀吉の死後、天下のご意見番として大阪城や京都の伏見城にいた家康は、1600年のお正月に全国の大名へ年賀の挨拶に来るよう求めましたが、会津に領地を持っている上杉景勝だけはなんだかんだと理由をつけて、挨拶には来ませんでした。これに家康が怒り、「国家の転覆をたくらむ上杉家を成敗する!」と息巻いて、会津を攻めに出かけたのです。そこで三成が家康の留守をいいことに兵を挙げました。中国地方に領地を持つ大大名・毛利輝元を総大将に担ぎ上げ、家康とともに会津へ行った武将たちの妻子を人質に取ると、家康の家来が守っていた伏見城を攻め落としてしまいます。もっとも、家康は自分に反対する勢力はすべて武力で成敗しなければならないと考えていたので、自分が留守の間に三成に兵を挙げさせ、戦の口実を作るためにわざわざ会津へ行ったともいわれているんですよ。

石田三成が陣を敷いた笹尾山
石田三成が陣を敷いた笹尾山
家康が軍を進めると、三成は関ケ原を見下ろす笹尾山に陣取りました。写真右は笹尾山の石田三成陣跡に復元された馬防柵です。(写真提供:関ケ原町地域振興課)

その5 西軍の総大将は、どうして石田三成じゃなかったの?

前にも述べましたが、三成には敵が多く、同じ豊臣政権の武将たちからも嫌われていました。頭のいい人は、時に他人に対し冷淡な物言いをして、不評を買うことがありますよね。しかし、それは自分を今の地位にまで引き立ててくれた秀吉のため。豊臣家に対する忠誠心が強いあまり、豊臣家のためにならないことがあれば、徹底的にそれをつぶしてきたことから、周囲に嫌われてしまったのです。とはいえ、秀吉亡き後、ナンバー1の実力を誇る家康を相手に戦う気持ちが固まり、少しでも多くの味方を集めることが必要と考えた三成は、同じ秀吉の家来で若い頃から親友だった大谷吉継という人の所へ相談に行きます。吉継は、勝ち目のない戦いだからあきらめるよう説得を試みますが、三成の心は変わりません。ならばと、「お前には人望がないから、大大名の毛利輝元を総大将にして味方を集めろ」と親友だからこそ言えるアドバイスをしました。三成はそれに従い、自らは豊臣政権での役職である官房長官役に徹して、合戦に望むことになったのです。

大谷吉継の墓
大谷吉継の墓
三成の親友だった大谷吉継は、不利と知りながら三成率いる西軍に参加。善戦していましたが、小早川秀秋ほかの軍が東軍に寝返ると持ちこたえられずに自刃して果てました。(写真提供:関ケ原町地域振興課)

その6 家康率いる東軍より、三成側の西軍の方が有利だったって本当?

東軍の兵7万4千に対し、西軍は8万4千もの兵を集め、数の上では西軍が有利でした。しかも、東軍より早く関ケ原に到着していた西軍は、鳥が翼を大きく広げたように敵を囲い込む『鶴翼の陣』という陣形をとっていたため、後に明治政府の軍事顧問だったドイツの少佐も、この布陣図を見て西軍の勝利を即答したといわれています。東軍には誤算もありました。家康は徳川の兵を2つに分けて、1つは自分が率いて東海道を、もう1つは息子の徳川秀忠に3万8千の兵を与え中山道から関ケ原へ向かわせましたが、秀忠は途中、西軍に味方する知将・真田昌幸、幸村親子が守る上田城攻めに苦戦して、関ケ原の合戦に間に合わなくなってしまったのです。しかし、それでも家康にはこの戦いに勝つ自信がありました。家康が関ケ原の合戦に勝つために考えていた秘策。それは一体どんなものだったのでしょうか。

関ケ原開戦当時の布陣図
関ケ原開戦当時の布陣図
東軍(赤)を囲い込むように布陣した西軍(青・オレンジ・紫)は、戦いを有利に進めていましたが、オレンジと紫で示した軍隊には、家康の秘策が込められていました。

その7 家康が考えていた秘策とは、一体どんなものだったの?

それはズバリ、『西軍武将丸め込み大作戦』です。三成が打倒家康の兵を挙げたことを、会津攻めに向かっていた家康が知ったのは西暦1600年7月25日ですが、その後、家康は8月5日に自らの居城である江戸城にいったん引き上げ、9月1日まで江戸を離れませんでした。1カ月近くも家康は江戸で何をしていたのでしょうか? 西軍側で東軍に寝返りそうな武将たちに、せっせと手紙を書いて使者を送り、「三成との合戦で、こちら側に寝返ってくれたら、ご褒美をあげるよ♪」と根回しをしていたのです。こうして、東軍に寝返る予定となったのは、秀吉の養子の小早川秀秋と、西軍の総大将・毛利家の家臣である吉川広家でした。合戦では、秀秋は関ケ原を見下ろす松尾山に、広家は家康の本陣を背後から突くことができる南宮山にと、それぞれ西軍の戦略上重要な場所に陣を敷きましたが、合戦が佳境に入ったところで東軍に寝返り、家康に勝利をプレゼントしたのです。

松尾山からの景色
松尾山からの景色
関ケ原を見渡すことができる松尾山に陣した小早川秀秋。しばらく戦況を見守っていましたが、家康から鉄砲を放たれ、寝返りをうながされると、西軍めがけて一気に山から攻め降りました。(写真提供:関ケ原町地域振興課)

その8 家康の本陣めがけて突入してきた西軍武将がいるって本当?

『島津の敵中突破』ですね。南九州を支配していた島津義弘は、関ケ原の合戦では石田三成軍の隣に陣し、西軍の一翼を担っていましたが、開戦前から三成とは折りあいが悪く、豊臣家への義理を果たすためだけに西軍へ参加していました。当然、戦いにもあまり積極的ではありませんでしたが、小早川秀秋の寝返りによって西軍が総崩れになると、攻め込んでくる東軍の中に島津軍はポツンと取り残されてしまいました。逃げ道さえも塞がれた義弘は、何と東軍の大将である家康の本陣めがけて突破を試みたのです。そのあまりに果敢な突撃ぶりに東軍は呆気にとられて防ぐことができず、義弘は見事、南九州まで帰り着くことができました。この話は関ケ原史上もっとも有名な武勇伝として、今も語り継がれているんですよ。

島津義弘陣跡
島津義弘陣跡
関ケ原に駆けつけた島津軍はわずか800名ほどでしたが、強力な鉄砲隊を武器に『鬼の島津』と東軍からは大変恐れられていました。(写真提供:関ケ原町地域振興課)

その9 天下分け目の合戦は、わずか6時間で決着したって本当?

確かに、西暦1600年9月15日午前8時に戦いの火ぶたが切って落とされた関ケ原の合戦は、昼頃、1万5千の兵を率いて松尾山に陣取った小早川秀秋の東軍への寝返りにより、午後2時には決着がついたといわれています。しかし、これまで述べてきたように、その2年前に当時絶対的な権力を誇った豊臣秀吉が死を迎えた瞬間から、歴史の針は関ケ原の合戦に向けてカウントダウンを始めていたのです。天下の覇権を奪おうとした徳川家康と、豊臣政権の安泰を図ろうとする石田三成を中心にして、全国の大名・武将を二分した関ケ原の合戦。今も残るその古戦場跡を訪ねてみれば、戦国武将たちが自らのプライドと生き残りをかけて死闘を繰り広げた、あの時代の息吹がよみがえってくるかもしれませんよ。

関ケ原古戦場 決戦地
関ケ原古戦場 決戦地
石田三成軍が陣した笹尾山を背に、現在はのどかな風景が広がる決戦地。ここでは、東軍の武将たちが三成の首を狙って激戦が繰り広げられました。(写真提供:関ケ原町地域振興課)

番外編 関ケ原古戦場跡には現在、何が残っているの?

関ケ原町歴史民俗資料館
【場所】関ケ原町大字関ケ原894-28
【電話】0584-43-2665
【時間】9:00〜16:30(11月から3月は16:00まで)
【休み】月曜日(祝日の場合は翌日)、12月29日~1月3日
【入館料】大人350円、小人200円
【関ケ原古戦場へ行くには…】
JRの場合;名古屋駅から東海道本線新快速で48分、関ケ原駅下車。徒歩約8分。
車の場合;名神高速道路・関ケ原ICから1.6km。約5分。


岐阜県関ケ原町には、関ケ原の合戦ゆかりの史跡が今もひっそりたたずんでいます。関ケ原町歴史民俗資料館では、東西両軍の陣形や合戦の流れを解説付きで展示しているほか、ミュージアムショップでは合戦ゆかりの武将グッズも手に入ります。

※当ページは一定の調査を元に制作をしておりますが、歴史認識と人物評価には多様な考え方があるため、異なる認識をお持ちの場合にはご了承ください。