• 城物語

城物語

それは豪華絢爛な城か、それとも難攻不落の要塞か。
歴史の遺産であり、日本美の象徴であり、堅牢な要塞である城。
ここでは、城の豪華絢爛な側面だけではなく、難攻不落の要塞として散りばめられた数々の工夫に注目します。
  • 岐阜城(稲葉山城)
天下統一が始まりを告げた地。
金華山の山頂にそびえる岐阜城は、その標高と眺めから難攻不落の城として名高い。事実、織田家は斎藤道三が守る岐阜城の攻略に苦戦したという。後に信長が岐阜城を落とし、天下統一の拠点として整備した。軍事拠点としてはもちろん、大名や文化人をもてなす外交拠点でもあり、金箔瓦を使った建物や滝を備えた池泉庭園がある山麓の館は、地上の楽園と評されたという。ちなみに「石垣に瓦葺屋根、高層の天守閣」という城のイメージは信長が作ったと言われ、それまでは土を盛り、堀をめぐらせた城が一般的だったとか。山頂にそびえる豪華な城は、戦国大名としての勢いを存分に示したと考えられる。
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難攻不落メモ

天然の要塞

全国有数の標高に位置する岐阜城。まさに「美濃を制するものは天下を制す」を体現していたと言えよう。その鉄壁の秘密は、地形と眺めにある。崖の上にあるため守りやすく、さらに敵の動きを見て先手を打てたのである。絶好のロケーションに優れた軍略と豊富な兵力が合わさって難攻不落の城ができ上がったのだろう。

  • 大垣城
石田三成が本拠地を構えた要塞。
美濃と近江を結ぶ要衝のため、斎藤道三と織田信秀が領有を争った大垣。そこにそびえるのが堅城で知られる大垣城で、江戸時代には4層の天守と10ヶ所以上の巨大な櫓を持つ広大な城郭を誇ったという。関ケ原の戦いでは、石田三成が最初の本拠地を構え、本戦で西軍が敗れてからも激しい攻防戦が繰り広げられた。攻めあぐねた家康の説得により、決戦から1週間後にようやく開城したという。そんな乱戦の中、たらい舟で城を脱出した西軍武将の娘おあむの日記をもとにした「おあむ物語」では、壮絶な籠城戦の様子が垣間見える。また春と秋には、たらい舟で川下りを体験できる。
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難攻不落メモ

鉄壁の七口之門

かつての広大な大垣城には「七口之門」と呼ばれる7つの堅固な城門があった。現在の東門は七口之門のひとつ「柳口門」を移築したもので、市内各所でも「七口之門」の跡を見ることができる。すべての門跡を歩いて訪れてみると、かつての大垣城の大きさが実感できるだろう。

  • 郡上八幡城
日本最古の模擬木造天守閣。
吉田川と小駄良川の合流地点にある八幡山にそびえる郡上八幡城。その始まりは、遠藤盛数によって砦が築かれた戦国時代末期まで遡る。しかし現存する縄張りの多くは、遠藤氏に代わって、稲葉貞通が城主となった際に完成させたもの。一時は城を追われた遠藤氏だが、関ケ原の戦い後には城主に返り咲き、以降5代にわたって郡上八幡城を統治した。しかし1871年の廃藩置県で廃城となり、石垣以外のすべてが取り壊されることに。現在の天守は、1933年に焼失前の大垣城を参考にして再建されたものである。付近には落葉広葉樹が多く、11月には城と一緒に美しい紅葉が楽しめる。
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難攻不落メモ

里の小町およしの人柱伝説

山頂に位置する城は鉄壁の強さを誇る分、築城に困難を極める。郡上八幡城も例に漏れず、石垣の崩壊に悩まされていた。そこで里の少女およしが、人柱として生き埋めにされることに。伝承によれば、城の石垣に向かって「およし、およし」と言って手を叩くと、彼女の泣き声が聞こえるとか…。

  • 苗木城跡
巨岩を飲みこむ、山城の石垣。
美濃と信濃の国境にある標高約432mの岩山に築かれたのが苗木城である。天守跡にある展望台からは、恵那山や木曽川などが一望できるが、ここでは石垣に注目したい。苗木城の石垣が巨岩を飲み込んでいるようにも見えるのは、敷地面積をより多く確保するために、石垣と岩石をより密着させて作られたからだという。一方で石の大きさが統一された箇所もある。それは苗木城が100年以上かけて築城されたため、その長い年月の中で石垣を積む技術が進化したからだと考えられている。このような姿からか、「岐阜のマチュピチュ」と呼ばれ多くの観光客が訪れている。
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難攻不落メモ

大矢倉跡

城内には、攻め入る敵を迎え撃つための大矢倉と呼ばれる建物の跡がある。外観は2階に見えるが、実は3階建て。2・3階には鉄砲狭間が設けられている。一説によると、城内最大の矢倉にも関わらず完成が寛永年間と遅かったため、幕府を憚って鳩を飼うための「御鳩小屋」だと称したという。

  • 江馬氏下館跡_高原諏訪城跡
北飛驒を治めた江馬氏の館と庭園。
江馬氏下館跡は、戦国時代に北飛驒を統治していた江馬氏の居館。「水田にある5つの大きな石は江馬の殿様の庭石」という伝承の通り、発掘調査で遺構が発見され、館や庭園が復元された。国の名勝であり、当時の景色を眺めながら会食体験ができる。また下館後ろの山稜上には高原諏訪城跡があり、広い曲輪や土塁に加えて、敵の侵入を防ぐ竪堀や堀切が残っている。土造りの山城であり、同じ飛驒にある松倉城とは対照的な造りとなっている。そんな北飛驒で栄えた江馬氏だったが、同じく飛驒の有力武将だった姉小路氏に敗れて衰退し、高原諏訪城も廃城となったという。
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難攻不落?メモ

由緒正しき中世の武家屋敷

難攻不落…ではないが、江馬氏下館には室町時代の庭園とそれを眺める建物(会所)があり、当時の武士の暮らしを垣間見ることができる。他にも格式の高い四脚門や、屋敷を囲む土塀、当時の威光を示す逆三角形型の薬研堀など、様々な遺構が再現されている。

  • 岩村城跡
女城主の悲劇が残る城。
標高717mの高地にあり、日本三大山城のひとつである岩村城。高低差180mにも及ぶ天嶮の地形を巧みに利用した城には、約4万個の石を使った多彩な石垣が張り巡らされている。そんな岩村城には女城主の悲しい逸話がある。織田家と武田家の国境に位置した岩村城は、たびたび領土争いの舞台となった。幼い御坊丸に代わり、城主を務めていた信長の叔母は、武田軍の秋山虎繁に攻められた際、無血開城のために彼との結婚を選んだ。しかし数年後、織田家が城を取り返し、2人は逆磔で処刑されることに。処刑の真際に彼女は「叔母の私を処刑するとは、いつかあなたも報いを受けるはず!」と叫んだという。城下の古い町並みはNHKの朝ドラ「半分青い」の舞台にもなっており、当時の面影を残す商家や旧家、なまこ壁などを見ることができる。
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難攻不落メモ

霊泉「霧ヶ井」の伝説

総延長1.7kmの石垣もさることながら、城主専用の霊泉「霧ヶ井」も見どころのひとつ。というのもある伝説が残っているからである。敵軍に攻め込まれた際に、この井戸に城内秘蔵の大蛇の骨を投じると、たちまち雲霧が城を覆い尽くし、敵軍から城を守ったという。この伝説により、岩村城は「霧ヶ城」とも呼ばれている。

  • 美濃金山城跡
山城の変遷が見える織豊系城郭。
標高276mの古城山山頂に築かれた美濃金山城は、織田信長や豊臣秀吉の建築技法の影響を受けた「織豊系城郭」のひとつ。特筆すべきなのは、土木工事の技術、破城の痕跡が当時のまま残っていること。破城されてから改変が加わっていない状態の石垣や瓦、建物礎石を見ることができるため、山城の変遷を考えるうえで、極めて重要な遺跡だとされている。元々は1537年に守護代一族の系譜をひく斎藤氏によって築城されたが、後に織田信長の家臣である森可成が改修し、金山城に改称された。森長可、蘭丸、忠政が35年間にわたって城主を務めた後、関ケ原の戦いを機に破城。一説には金山城の諸施設が犬山城に移築されたとの伝承もあるが、真実のほどは不明のままである。
  • 松尾山城跡
関ケ原の戦いの命運を左右した城。
美濃と近江の境にある松尾山城は、東山道と伊勢街道、そして北国街道まで一望できるため、古くから戦略上の要衝として知られていた。そんな絶好の地に西軍総大将の毛利輝元を迎えるため、石田三成は松尾山城の改修を命じていたが、開戦前夜に突如、西軍の小早川秀秋が入城した。開戦後、彼は戦況を傍観してしばらく動かなかったが、業を煮やした徳川家康からの発砲を機に、同じく西軍の大谷吉継隊へ雪崩れ込んだという。これにより西軍は総崩れとなり、東軍が勝利へと大きく近づいた。主郭を囲む6つの曲輪と、その周囲に廻らされた土塁や堀切などを見ながら、小早川秀秋が見つめた天下の行く末に思いを馳せてみてはいかがだろうか。
  • 大桑城跡
土岐氏が栄えた政治の中心地。
1535年、美濃国守護だった土岐氏は長良川の洪水がきっかけとなり、守護所を標高407.5mの山頂に移して大桑城を築いたという。土岐氏の統治により城下は栄えたが、やがて家督争いの舞台となり、斎藤道三との激戦の末に落城。政治の中心は道三が拠点とする井口(現在の岐阜市)へと移り、やがて大桑城は廃城になったと考えられる。現在の山頂にはシンボルとして設置されたミニチュアの大桑城があり、その正面では金華山や伊勢湾、名古屋駅の高層ビル群を見渡すことができる。条件に恵まれれば一面に雲海が広がることもあり、この絶景を求めてハイキングに訪れる人も多い。
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難攻不落メモ

多彩かつ大規模な防御施設

古城山の山頂一帯には、大小90余りの曲輪(山の斜面に造られた平坦地)があり、敵が簡単に侵入できないように堀切や竪堀が設けられている。一部には石垣も残るほか、山麓の城下町の入り口にも、四国掘・越前堀・外堀という大規模な堀と土塁からなる防御設備が築かれていることから、大桑城はかなり堅固な城塞だったと考えられる。

  • 松倉城跡
国内最高峰にある総石垣の山城。
高山市街地にある標高約856mの松倉山山頂にある山城、それが松倉城跡である。大規模な石垣跡を始めとして、曲輪、堀切、井戸などの遺構が残っており、その様子はほぼ石垣の城と言えるほど。また石垣造りの城としては日本で最も高い場所に位置している。元々は飛騨の戦国大名だった姉小路頼綱によって築かれた城だが、1585年に秀吉から攻撃されてあえなく落城。その後、飛騨を治めた金森長近によって廃城にされたという。かつて二の丸があった場所には「旗立石」と呼ばれる巨石があり、合戦の際には軍旗を立てていたとか。今もなお残る遺構を見ながら、戦国時代の栄枯盛衰を感じてみてほしい。
  • 明知城跡(別名:白鷹城)
天険の地形にそびえる美濃国一の山城。
天正2年正月、織田信長と武田勝頼の初めての合戦の舞台となったのが明知城。標高約178mの丘陵地帯にある山城で、山頂の二つの曲輪と出丸(でまる)を中心にして、東西400m南北300mにわたって遺構が広がっている。険しい地形を巧みに利用した跡が数多く残っており、斜面からの侵入を防ぐ畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)はこの辺りでは特に珍しいと言える。他にも出丸の巨石列や貯水池、山麓に構えられた遠山氏の陣屋など多くの見どころがあり、美濃国を代表する山城と言えよう。
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難攻不落メモ

畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)

畝状竪堀群は、斜面と垂直に設けた複数の竪堀を組み合わせた堀である。斜面から侵入してくる敵兵の動きを封じるために築かれた。畝状竪堀群を持つ城郭は、この地域では限られている。