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- 戦国・城郭
- 飯沼勘平長資の墓
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- 岐阜・中濃
- 飯沼勘平長資は、岐阜城主・織田秀信(三法師)の家来で「岐阜四天王」の一人。関ケ原の合戦の前哨戦、「米野の戦い」で多くの手柄を立てた当時21歳の武将(大垣 池尻城主の子)。東軍大将池田輝政の弟、池田長能と一騎打ちをして戦死しました。尚、南西約500mの場所…
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- 行徳岩 (武儀川)
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- 岐阜・中濃
- 「明智光秀公の母」が懐妊していた時、この岩に立って行水し、「私の生む子が男であったら、仮令三日でもよいから天下を取るような立派な男子を、もし女であったら天下一の美女を御さづけ下さい」と祈ったと伝えられています。
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- 薩摩池 <島津の退き口ゆかりの地>
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- 西濃
- 島津隊が、布陣した際に軍用として使用した小さな池です。古来より水が枯れたことはないと言われています。これより、伊勢街道を走り続ける!!
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- 十五社神社
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- 岐阜・中濃
- 平安時代に創建された神社で、土岐氏が氏神として崇敬していました。天文9年(1540)に土岐氏が奉納した越前産笏谷石製の狛犬一対が現存しています。当時の朝倉氏は笏谷石を越前国外にほとんど持ち出さなかったことが分かっており、土岐氏と朝倉氏の深い関係が想像さ…
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- 無動寺の戦い跡 光得寺 梵鐘
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- 岐阜・中濃
- 天文13年(1544年)8月、斉藤道三と尾張(現愛知県)の織田信秀(織田信長)の父との戦いの地。織田勢5000余人は、越前の朝倉勢7000余人と相呼応して、8月15日を期して稲葉山を挾撃します。斉藤道三の娘婿である土岐頼香(よりたか)を大将にして、無動寺村の安養山光…
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- 池田輝政 鎧かけ松・八剣神社
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- 岐阜・中濃
- 1600年(慶長5年)8月22日、米野の戦い(関ヶ原の合戦の前哨戦の一つ)を終えた池田輝政の軍勢が、岐阜城攻防戦(関ヶ原の合戦の前哨戦の一つ)へと向かう途中に休息をとった場所が八剱神社です。池田輝政が、松に鎧を掛けて休んだことから「鎧かけ松」と言われていま…
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- 長宗我部盛親陣跡
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- 西濃
- 長宗我部元親の四男、父の死後、地家督を継ぐ。当初、東軍に与するつもりだったというが、行きがかり上、西軍に属することとなる。南宮山に陣を敷いたが毛利軍が動かず、戦わずして引き上げた。西軍主力の一角として、南宮山に布陣した。
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- 池田輝政陣跡・春王安王墓
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- 西濃
- 岐阜城攻略で二の丸一番乗りを果たした池田輝政は、関ケ原合戦では、南宮山の軍勢に備えて布陣しました。陣跡の石碑は、室町時代の史跡である春王・安王の墓と同じ敷地に建っています。その後、輝政公は、姫路藩初代藩主として姫路城を現在残る姿に大規模に修築します…
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- 法雲寺 (法雲禅寺)
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- 西濃
- 美濃国最後の守護、土岐頼芸は岐礼郷の東春庵で生涯を終えました。墓が法雲寺門前にあります。
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- 稲葉一鉄の墓・月桂院
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- 西濃
- 稲葉一鉄(「頑固一徹」という言葉の語源である説が有力)は、土岐家、斉藤家、織田家、豊臣家に仕えた。美濃国曽根城主。安藤守就、氏家直元と併せて「西美濃三人衆」と称され、特に稲葉一鉄(良通)は、三人衆筆頭とされた。大河ドラマ「麒麟がくる」にも登場。揖斐…
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- 於牧の方の墓所
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- 東濃
- 悲運の最期をとげた、於牧の方を偲び、里人の民が建立したとされています。将軍徳川吉宗によって制定された「公事方御定書」の翌年、1743年に建立された石塔には、当時の世評をはばかって「南無阿弥陀如来」とだけ刻まれ、樹齢400年を超える老樹「高野槙」を於牧の方…
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- 土岐頼貞の墓
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- 東濃
- 南北朝時代に美濃国守護となった土岐頼貞とその一族の墓です。この辺りは、江戸時代には中島村と呼ばれ興禅寺(光善寺)跡とも言われています。墓所は道路によって東西に分断され、東側は五輪塔10基、西側には五輪塔5基と宝篋印塔4基があります。頼貞の墓には「暦二年…
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- 平塚為広碑
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- 西濃
- 関ケ原の隣、岐阜県垂井町(一万二千石)を治めていた平塚為広は、関ケ原の合戦時、いち早くこの地へ入り、西軍として参戦します。病身を押して戦った大谷吉継と盟友関係だったこともあり、吉継に代わって大谷隊と平塚隊の両軍を指揮していたとも伝えられています。<…
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- 福島正則陣跡
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- 西濃
- 福島正則は、石田三成と対立して東軍へ加担。開戦後、宇喜多隊に襲いかかり死闘を繰り広げました。現在、陣跡が残る春日神社境内には、関ケ原合戦屏風にも描かれた樹齢800年の「月見の宮・大杉」が、どっしりとそびえ立っています。また、関ケ原合戦時に福島隊の戦…
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- 上恵土城址
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- 岐阜・中濃
- 戦国時代の15世紀末頃に荏土城と呼ばれていた平城で、後に上恵土城と称されるようになりました。築城年代は定かではありませんが、天正10年(1582)頃の城主長谷川五郎右衛門は大森城主奥村又八郎と謀って、金山城主森長可を攻め滅ぼそうとしますが、逆にその謀議の報…
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- 福束城跡 福満寺
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- 西濃
- かつて舟運の拠点だった城跡、福満寺は、寛正元年(1459)に僧盛道の開基の真宗大谷派の寺院で本尊は阿弥陀如来です。福満寺には、旧福束城を記録した「古版木」が残っています。版木の図柄は、中央に福満寺の本堂を画き、左に丸毛兵庫頭の墓、右に鎮守佐々木大神宮、…
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- 金屋川原の合戦址 須賀神社・正覚寺
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- 西濃
- 西軍として南宮山後方に布陣していた長宗我部盛親は、関ケ原の合戦での味方の敗走を知り、戦わずして戦線離脱を図りました。伊勢方面へ抜けようと南へ進んだ毛利秀元・長曽我部盛親・長塚正家らは、養老町金屋付近で、遅れて関ケ原を目指していた東軍・松の木城主&nbs…
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- 宇喜多秀家陣跡 南天満山
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- 西濃
- 約1万7千という西軍の主力部隊を持ち、副総帥として関ケ原の合戦に参戦した宇喜多秀家。開戦直後に攻め込まれたという史実からも、激しい戦いが繰り広げられた場所だと考えられています。
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- 合渡川の戦い跡
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- 岐阜・中濃
- 米野の戦いの敗報を聞いた石田三成は、岐阜城の後詰として合渡川(長良川)右岸の河渡に「重臣 舞兵庫(まいひょうご)」を派遣。慶長5年(1600年)8月23日、黒田長政・田中吉政・藤堂高虎ら東軍は、合渡川を渡河して西軍を攻撃、不意をつかれた西軍は敗走し大垣城に…
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- 白山神社 (旗懸けの松)
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- 西濃
- 慶長5年(1600年)9月14日、岐阜から赤坂に向かった徳川家康公は、神戸の白山神社で休憩した折、松の大樹に旗を懸けたところから、その松は「旗懸けの松」と呼ばれるようになりました。また、そのとき神戸町八条の禅宗「瑞雲寺」の住職が大きな柿を献上したところ、家…
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