境谷処刑場(さかいだにしょけいじょう)

悲しい歴史遺産

近世の農民にとって林野は、生活資材、肥料、秣(まぐさ)などの供給源及び用水源として欠くことのできないものであったが、その利用形態は、制度的に明確な規定はなく、一般的に入会(いりあい)の形が多かった。それが御立山の設定や新田開発が行われるようになると、地域的に林野の面積が追いつめられ、利用状況に変革が起こった。こうして、林野の所有権、利用権、境界等をめぐる争いが多く発生するようになった。これらの争いを「山論」という。

 境谷処刑場にまつわる享保(きょうほ)の山論は、足かけ4年の間争って、ついに実らず、主謀者2人が境谷で斬(ざん)首されて終結するという悲しい事件であった。

 そもそもこの山論は、享保9年(1724)6月、中谷栃(とち)木洞の草刈り入会権をめぐって東組神付(じんづき)と西組との間に争論が起きたことに始まる。西組頭(かしら)太兵衛は、神土村庄屋新右衛門に争論の裁定を訴え出た。しかし、庄屋は山見分(けんぶん)もせず、一向に裁断をしようとしないので、しびれを切らした東組頭清右衛門が代官原五郎右衛門に苦衷を訴えた。代官から詰問された庄屋は、詫(わ)びを入れて事件を貰い下げた。そして、惣(そう)百姓を集めて評議したが、東組の1村総入会の主張と、「古来のとおり組切り山にしてほしい」という平(たいら)組の申し出で衆議は紛糾した。以後、なぜか問題解決がなされないまま、いたずらに日が過ぎた。

 明けて天保10年(1725)4月1日、平組捨薙(すてなぎ)洞で肥(こやし)灰を焼いていた東組の百姓文六郎、与十郎、与吉、銀八郎は、平組から「ここは先年から平組の囲い山にした。灰を焼くな。」と入会を拒まれた。東組の者は、前年の代官の口上決裁や昔からの入会地であることなどを理由に庄屋に掛け合ったが、らちが明かなかった。やむなく東組頭清右衛門は、同年6月17日、再び代官原五郎右衛門に越訴(おつそ)した。しかし、この訴えは、総入会を証する書類がないことその他の理由で、東組の全面敗訴となった。その結果、東組頭清右衛門は、北方10か村追放を申し渡されて切井(きりい)村へ落ち、他の東組の者も全員が地替、追放、過料の処分を受けた。

 追放された元東組頭清右衛門は納まらず、その年の12月、神付(じんづき)組銀右衛門、黒岩組円八郎と出府し、それぞれの訴状で江戸芝藩邸の遠山左兵衛へ提訴した。だが、あくる年の判決は、庄屋側の「神土(かんど)村草山組切り証文」がものをいって、前回と同じように東組の敗訴であった。出訴した3人は入牢、銀八郎、弥兵衛の2人は手鎖となり、入牢費用は、東組42人とその家族で負担することが義務づけられた。

 2人の手鎖は間もなく解かれたが、苦衷に耐えかねた東組42人は、享保11年(1726)6月、再審を請求した。だが、この訴状に押印しなかった者が15人あり、代官に訴訟に加わる意志のないことの口上をとられ、一党から脱落した。藩は、これを機に、牢舎入りの3人を放免し、別に新たな処分を行うなどして懐柔策をろうし、この訴訟の決着を図った。

 その年12月、庄屋は「村掟(おきて)」を作成して惣百姓の調印を求めた。この調印は年末恒例のものであったが、その最後に宝永元年(1704)の「神土村草山組切り証文」の追認条項1か条が追加されていたため惣百姓123人中106人は押印したが、17人は調印を拒み、あくまで初志を貫徹しようとした。

 享保12年(1727)6月、17人のうち金兵衛、磯右衛門、平四郎の地替が言い渡され、他の者も順次地替されることが伝わると、この17人は、1か所へまとめての地替を願いでたが許されなかった。

 同年7月4日、17人と村役人に苗木出頭が命ぜられた。庄屋、組頭は、直ちに苗木へ出発した。しかし、17人は、命令を無視して江戸に向かうため、深夜の濃信国境を鳥屋峠から木曽瀧越(長野県王滝村)へと急いだ。どこまでも初志を貫こうとしたのである。しかし、彼らは、江戸に着いたものの、空しくも捕らえられ、「藩の呼び出しに背いた罪」で苗木に護送された。そして訴状に対する理非曲直が裁かれないまま、それぞれ苛酷な刑に処された。すなわち、磯右衛門、平四郎の2人は、同年8月21日、境谷で斬首された。伝えによると、常楽寺の住職は、2人の助命を苗木藩に嘆願し、奉行の助命の内意を得たが、処刑場へたどりつく暇(いとま)がないまま、時刻の違いで処刑は終わったという。残る17人の家族は、取り払いにあい、田畑家屋敷、その秋の収穫米などすべてを没収されて、それぞれの身寄りを頼って落ちていった。

 事件鎮静後、後任の庄屋源五郎は、中通組へかげ山を、神付組へ中谷山の一部をそれぞれ用捨山(自由に出入りを許す山)として与えた。

 境谷処刑場は、最低限の生活権の確保のために、時の政治に果敢にそして執拗(しつよう)に立ち向かった農民の歴史の跡であり、江戸中期の農民の生活を想起する上でも大切な東白川村の歴史遺産である。

基本情報

住所
〒509-1301 岐阜県加茂郡東白川村越原46-1
問い合わせ先
東白川村教育委員会
☎0574-78-3111
駐車場(普通自動車)
隣に森林組合があるので受付の方に一言お声がけください
ウェブサイト

https://www.vill.higashishirakawa.gifu.jp/syoukai/gaiyo/archive/bunkazai/?p=9

関連スポット

この周辺のスポットを探す

n_chiffon
n_chiffon
何度でも食べたくなる、ふんわりおいしいシフォン
more
茶の里野菜村
茶の里野菜村
里の恵を、まるごと味わえる
more
おとめの滝
おとめの滝
自然の中に一筋の滝
more
道の駅 茶の里東白川
道の駅 茶の里東白川
♪美味しいお茶でホッと一息♪
more
サチコブラウニー
サチコブラウニー
香ばしさと幸せが詰まった、小さなごほうび
more
釜渕豆腐店
釜渕豆腐店
手作り一筋100年!
more
CROCE RESORT
CROCE RESORT
自然と癒しが融合する滞在型リゾート
more
みよしや
みよしや
誕生から30年以上 地元で愛され続ける味付けあげ
more
四つ割の南無阿弥陀仏碑
四つ割の南無阿弥陀仏碑
東白川村廃仏毀釈の史跡
more
魚の宿
魚の宿
ログハウスで味わう、東白川の里山時間。
more

このページを見ている人は、
こんなページも見ています

国指定天然記念物「越原ハナノキ自生地」
国指定天然記念物「越原ハナノキ自生地」
リードテキストリードテキストリードテキストリードテキストリードテキストリードテキストリードテキストリードテキストリードテキストリードテキスト
詳細はこちら
四つ割の南無阿弥陀仏碑
四つ割の南無阿弥陀仏碑
リードテキストリードテキストリードテキストリードテキストリードテキストリードテキストリードテキストリードテキストリードテキストリードテキスト
詳細はこちら