岐阜の
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- 西濃
- 竹中公園の桜
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- 西濃
- 西美濃もみじ街道沿いにあり、谷汲踊保存会の会長を務めた竹中義雄氏により整備された施設公園。山の斜面を利用して桜などの木々が植栽されており、桜の開花時期や紅葉の時期には特に美しい景色が鑑賞できる。※毎年見頃は、4月上旬~4月中旬頃です。
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- 菁莪記念館
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- 西濃
- 江戸幕府は、朱子学を官学とし藩校などでは武士教育が盛んに行われ儒学が浸透していきました。岩手の旗本竹中氏は、天保年間に道場菁莪堂をつくり、文武両道を指導。明治になって菁莪義校、菁莪学校として発展しました。現在、岩手小学校の東南に菁莪記念館が建てられ…
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- せきがはら史跡ガイド
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- 西濃
- 「せきがはら史跡ガイド」は、関ケ原町の史跡講座を2年間受講した、関ケ原在住・出身者で構成されています。希望の時間やコースに合わせて関ケ原の名所古跡を案内してくれるので、旅のプランに組み込みやすいです。また、初めて関ケ原を訪れた方には、お任せコースも…
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- 大野あけぼのミュージアム
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- 西濃
- 県内で町村で初となる大野町の埋蔵文化財センター、愛称「大野あけぼのミュージアム」が令和3年6月1日にオープンしました。大野町は古代大野郡の中心として栄えたところで、古墳と条里に代表される数多くの遺跡があります。埋蔵文化財センターはこれらの調査、研究…
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- 黒田長政お手植えの銀杏の木・五明稲荷神社
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- 西濃
- 天正6年(1578)、羽柴秀吉が播磨平定を進める中三木城攻めのおり、織田家家臣の荒木村重が摂津で謀反を企てました。村重と旧知であり、秀吉の部下であった黒田官兵衛が説得に当たりましたが、逆に石牢に幽閉されてしまいます。黒田官兵衛が裏切り村重に寝返ったと判断…
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- 松平忠吉・井伊直政陣跡
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- 西濃
- 関ケ原の合戦で、井伊直政は事実上の総大将で先鋒役の意識が強く、直政の娘婿で初陣でもある松平忠吉に手柄を立てさせたい一心でした。東軍先鋒は、福島隊と決まっていましたが、午前8時頃に福島隊の先頭隊長の可児才蔵の制止を振り切り、宇喜多隊へ発砲し開戦となり…
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- 福島正則陣跡
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- 西濃
- 福島正則は、石田三成と対立して東軍へ加担。開戦後、宇喜多隊に襲いかかり死闘を繰り広げました。現在、陣跡が残る春日神社境内には、関ケ原合戦屏風にも描かれた樹齢800年の「月見の宮・大杉」が、どっしりとそびえ立っています。また、関ケ原合戦時に福島隊の戦…
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- 大谷吉継の墓・湯淺五助の墓
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- 西濃
- 石田三成の盟友だった大谷吉継は、病身を押して関ケ原の合戦に参戦し、三成への『義』を貫きます。当初から疑っていた小早川隊の裏切りにも動じず応戦しますが、配下の脇坂隊ら4隊までが攻撃をしかけてくると軍は混乱、吉継は自害してしまいました。尚、垂井町ゆかり…
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- 東首塚
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- 西濃
- 関ケ原の合戦翌日、勝者となった徳川家康は、戦いで破壊された神社の修復や、首実検に供されたり、戦場に残された夥しい戦死者の処理を竹中重門(しげかど)に命じました。重門は、遺体を埋葬し、東西2カ所に首塚を造営。朱色の門を抜けた敷地内には、スタジイの古木…
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- 兜塚
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- 西濃
- 野一色助義(通称:野一色頼母(のいっしきたのも))は、近江国の出身で豊臣三中老の一人「中村一氏」公の家老として8千石で仕えた人物です。関ケ原の合戦の時、「中村一氏」は、東軍に属しますが、関ケ原の合戦直前の7月に亡くなったため弟「中村一栄」と共に出陣…
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- 夜叉ヶ池周辺の紅葉
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- 西濃
- 福井県との県境、三周ケ岳の頂上に近い標高1099mに位置する「夜叉ヶ池」。 村を干ばつから救うため、夜叉姫がこの池に身を沈め雨を降らせたという伝説をもっています。神秘的な静けさに包まれた池で、毎年雨乞の行事が行なわれています。 飛騨・美濃紅…
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- 黒田長政・竹中重門陣跡 / 岡山 ( 丸山 ) 烽火場
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- 西濃
- 標高164mの丘陵地・岡山に竹中重門は、黒田長政とともに陣を取り戦機を見て狼煙を上げました。ここは、戦況が把握しやすく関ケ原の合戦の「開戦の狼煙」を上げるには好適地。現在も山頂からは関ケ原のまちや辺り一帯を一望することができます。
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- 安八百梅園
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- 西濃
- 安八百梅園は、町の中心を流れる中須川沿いに、多くの皆さまが憩い集う場所にしようという趣旨のもと、また、浄化センター周辺の環境を整えるため、平成10年4月に開園しました。3.9ヘクタールの敷地に100種類以上、1200本以上の梅が植栽してあります。「安八百梅園」…
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- 美濃路 墨俣宿脇本陣
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- 西濃
- 美濃路墨俣宿にあった脇本陣跡に建つ民家です。脇本陣は明治24年(1891年)の濃尾震災の際に倒壊し、現在は隣接する本正寺に山門が残るのみです。その後、再建されたこの建物は、脇本陣時代の構造を色濃く残しており、当時の宿場町の面影を偲ぶことができます。週末には…
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- 松ノ木城跡
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- 西濃
- 城主は、東軍・徳永寿昌。寿昌は関ケ原の合戦後、高須城主に栄進しました。松ノ木城の位置は特定されておらず、御霊神社のあたりと言われています。南美濃の戦いでは、今尾城主・市橋長勝と共に福束城(城主 丸茂兼利)を落城させます。
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- 白山神社 (旗懸けの松)
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- 西濃
- 慶長5年(1600年)9月14日、岐阜から赤坂に向かった徳川家康公は、神戸の白山神社で休憩した折、松の大樹に旗を懸けたところから、その松は「旗懸けの松」と呼ばれるようになりました。また、そのとき神戸町八条の禅宗「瑞雲寺」の住職が大きな柿を献上したところ、家…
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- 長宗我部盛親陣跡
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- 西濃
- 長宗我部元親の四男、父の死後、地家督を継ぐ。当初、東軍に与するつもりだったというが、行きがかり上、西軍に属することとなる。南宮山に陣を敷いたが毛利軍が動かず、戦わずして引き上げた。西軍主力の一角として、南宮山に布陣した。
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- 浅野幸長陣跡
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- 西濃
- 浅野幸長は、五奉行・浅野長政(北政所の義兄)の長男として生まれ、豊臣家とは親戚関係。秀吉の死後、五奉行の石田三成と対立、石田三成襲撃事件に参加。関ケ原の戦いでは、豊臣秀吉恩顧でありながら父長政と共に東軍に参加し、先鋒を務め岐阜城攻略。本戦では、現在…
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- 勝地峠 <島津の退き口ゆかりの地>
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- 西濃
- 標高183mの峠の麓で島津豊久隊は、最後の捨て奸(がまり)を行い、川上四郎衛のごうれいを受けた柏木源藤は、追撃する井伊直正の狙撃に見事成功しました。その後、東軍の追撃はようやく中止。島津豊久公は、残兵の助けを借りながら伊勢西街道「勝地峠」を越えました。
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- 福束城跡 福満寺
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- 西濃
- かつて舟運の拠点だった城跡、福満寺は、寛正元年(1459)に僧盛道の開基の真宗大谷派の寺院で本尊は阿弥陀如来です。福満寺には、旧福束城を記録した「古版木」が残っています。版木の図柄は、中央に福満寺の本堂を画き、左に丸毛兵庫頭の墓、右に鎮守佐々木大神宮、…
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