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- 西濃
- 森林空間散策路・絆の森
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- 西濃
- 大野町の北部山麓には森林空間散策路があり、ロープなど使って急斜面を上る上級者向けコースや、アップダウンの少ない木道を歩き無理なく森林浴が楽しめるコースが12コースあります。各コースにはそれぞれ違った見どころがあり、古墳や城跡など歴史遺産を間近で触れ合…
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- 池田屋酒造(株)
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- 西濃
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- 美濃路
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- 西濃
- 美濃路は、東海道宮宿(現愛知県名古屋市熱田区)と中山道垂井宿(現岐阜県不破郡垂井町)を結ぶ全長約58キロに及ぶ街道でした。中山道の木曽谷、東海道の鈴鹿峠や七里の渡しといった難所を避けることができました。そのため、参勤交代で国許を行き交う諸大名だけでな…
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- 月見の森のあじさい【海津市】
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- 西濃
- 海津市の月見の森では、「あじさいの小径」と呼ばれる石畳の階段が続く遊歩道に沿って、およそ1,000本のあじさいが咲き誇ります。
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- 島左近陣跡
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- 西濃
- 関ケ原の合戦前日、兵500を率いて挑んだ岐阜県大垣市「杭瀬川の戦い」で勝利し、西軍の士気を高めた左近は、笹尾山の麓に布陣します。そこで東軍からの猛攻を抑えますが、黒田隊の射撃により負傷し戦線を離脱しました。
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- 大塚酒造(株)
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- 西濃
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- 朝倉山真禅院
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- 西濃
- 739年創建の天台宗の古刹。三重塔や県下最古といわれる梵鐘など国指定重要文化財を所有。緩やかな石段が続く表参道を上がれば、紅葉の境内から、垂井の町並みが一望できます。
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- 光顕寺
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- 西濃
- 教如上人が関ヶ原合戦、直前の慶長5年8月に徳川家康の陣中見舞いを行った。関東からの帰り道、墨俣の渡船場付近(長良川)で西軍の石田三成軍に襲われたが、安八・墨俣などの15か村の信徒によってかくまわれた場所とされている。その際に、もはやこれまでかと思い、…
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- 美濃路 墨俣宿本陣跡
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- 西濃
- この墨俣宿本陣跡には、本陣の由来を示す石碑と渡船場常夜燈があるだけです。慶長5年、伊達政宗が宿泊したこともあり「伊達様御本陣」とも言われていました。本陣は、代々澤井家が務めていました。
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- 西首塚
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- 西濃
- 関ケ原一帯を領していた竹中重門は、関ケ原の合戦翌日、戦いによって壊れた神社や戦死者の処理を家康に命じられ、東西2カ所に首塚を造営しました。寛政5(1793)年に西首塚の敷地内に建立された観音堂には、馬頭観音や千手観音が安置されています。
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- 日吉神社
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- 西濃
- 日吉神社は、町の中心にあって「神戸山王まつり」の舞台ともなる、文化遺産と歴史の宝庫です。弘仁8年(817年)に伝教大師が創建した神社で、近江坂本の日吉大権現を主神として7柱の神が祀られています。神社境内には、神仏習合の名残の三重塔が建立され、国の重要文…
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- 玉泉堂酒造(株)
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- 西濃
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- 権現のぞき
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- 西濃
- この辺り(大垣市河間)を「権現のぞき」と呼んでいたと伝えられています。関ケ原の合戦の時、大垣城に居た西軍 石田三成が、東軍の陣地「岡山(勝山)」を望む望楼を立てました。慶長5年(1600年)9月14日、関ケ原の合戦の前哨戦 杭瀬川の戦いにも使われま…
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- 長松城跡
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- 西濃
- 大垣市荒崎小学校付近が、竹中半兵衛の同族 竹中一族ゆかりの城「長松城」の跡と考えられており「長松城址」の標石が立てられています。ここは同城堀のうちの一部であり、古城図を見ると旧長松村の集落全体が、城郭の形を成しています。その城郭を囲むように曲がり角…
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- 赤坂港跡
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- 西濃
- 川を交通の手段としていた1900年初期ごろ、川港の赤坂港には、500艘を超える船が往来したと言われています。この地域は、古くから石灰や大理石産業が盛んで、産業の町としてにぎわいを見せていました。赤坂港会館は、明治8年赤坂の四辻にあった屯所(警察署)を復元し…
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- 栗原九十九坊跡(長宗我部盛親陣跡)
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- 西濃
- 栗原九十九坊跡は、栗原山の山頂部から東山麓に広がる大規模な寺院群です。栗原九十九坊跡との関係が想定される清水寺跡に近接しています。長宗我部元親の四男、父の死後、地家督を継ぐ。当初、東軍に与するつもりだったというが、行きがかり上、西軍に属することとな…
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- 安国寺恵瓊陣跡
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- 西濃
- 安国寺恵瓊は、毛利輝元公を西軍の大将にまつりあげることに成功する。関ケ原の合戦では、西軍として南宮山に布陣。吉川広家等の裏切りにより傍観軍になる。合戦後、石田光成公らとともに京都六条河原で斬首されました。
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- 長寿院盛淳の墓・琳光寺
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- 西濃
- 島津義弘公の家老・長寿院盛淳は、島津豊久公に次いで捨て奸(すてがまり)を行い、義弘公から賜った陣羽織を身につけ、「我こそは義弘也」と名乗り、主君の身代わりとなって討ち死にしました。琳光寺には、盛淳公を悼んで宝暦治水の薩摩藩士が刻んだ五輪塔と、子孫が…
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- 脇坂安治陣跡
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- 西濃
- 賤ヶ岳七本槍の一人・脇坂安治は、関ケ原の合戦前から東軍・藤堂高虎と内応していました。朽木基綱・小川裕忠・赤座直保らとともに西軍として松尾山の麓に布陣。脇坂隊の横に大谷吉継の隊が、陣取る。しかし、松尾山の小早川秀秋が寝返ると4隊(脇坂・朽木・小川・赤…
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- 黒田長政お手植えの銀杏の木・五明稲荷神社
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- 西濃
- 天正6年(1578)、羽柴秀吉が播磨平定を進める中三木城攻めのおり、織田家家臣の荒木村重が摂津で謀反を企てました。村重と旧知であり、秀吉の部下であった黒田官兵衛が説得に当たりましたが、逆に石牢に幽閉されてしまいます。黒田官兵衛が裏切り村重に寝返ったと判断…
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