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- 戦国・城郭
- 烏頭坂 島津豊久碑 <島津の退き口ゆかりの地>
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- 西濃
- 関ケ原の合戦終盤、陣から敵中突破を図り、徳川家康の本陣をかすめて伊勢街道へ進んだ島津隊。東軍の追撃は、激しく先手を務めていた島津豊久公が殿(しんがり)にまわり、烏頭坂で井伊直政・松平忠吉らを迎え撃ちました。豊久公は重傷を負いましたが、伊勢街道(伊勢…
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- 春日局出生地 (春日局公園)
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- 西濃
- 春日局公園徳川家光 公の乳母として、大奥の基盤を整えたと知られている「春日局(= お福)」母の兄は、「明智光秀」公 ・・・ とも言われています。父の「斎藤利三」公は、「明智光秀」公の重臣として本能寺の変、山崎の合戦で行動を共にした白樫城主(揖斐川…
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- 史跡 江馬氏館跡公園
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- 飛騨
- 【国史跡追加指定記念キャンペーン実施中!!】 2023年10月、神岡町の傘松城跡が史跡江馬氏城館跡に追加指定されることが決定した記念として、 江馬氏館跡公園、高原郷土館(神岡城)に入館いただいた方に、 笠松城特別デザインの特製クリアファイルをプレゼント…
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- 妙應寺
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- 西濃
- 妙應寺(妙応寺)縁起によれば、今須領主の長江重景公が、亡き母(妙応)が生前領民たちを苦しめた報いをうけて苦しんでいることを知り、母の供養のために創建したとされています。平成22年(2010年)に開創六百五十年大遠忌を勤め、「形と心」の両面を兼ね備えた禅の…
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- 山口城跡
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- 岐阜・中濃
- 標高345mの権現山の山頂に平場が築かれています。これが山口城跡です。江戸時代初期の『美濃国諸旧記』によると鎌倉時代初期に梶原景時が城主であったと記されています。ここは谷汲街道と越前街道が交差し、根尾川が濃尾平野に注ぎ込む交通、軍事、治水の要所とな…
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- 大雄寺
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- 飛騨
- もとは吉城郡上広瀬村(現高山市国府町)にありましたが、1586年に金森長近によって、現在の地に移され、浄土宗の寺となりました。鐘堂は1689年に建てられた飛騨地方最古のものです。
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- 龍護寺
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- 東濃
- 明智光秀公供養塔 明知遠山家の菩提寺である龍護寺に、明智光秀公の供養塔があります。 光秀公に関する碑は、「その悲痛な思いで」ことごとく割れるといった通説どおり、斜めに大きくひび割れが入っています。 毎年5月3日には、光秀まつりとあわせて、明智光秀公…
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- 高原郷土館(神岡城)
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- 飛騨
- 【国史跡追加指定記念キャンペーン実施中!!】 2023年10月、神岡町の傘松城跡が史跡江馬氏城館跡に追加指定されることが決定した記念として、 江馬氏館跡公園、高原郷土館(神岡城)に入館いただいた方に、 笠松城特別デザインの特製クリアファイルをプレゼント…
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- 菩提山城跡
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- 西濃
- 竹中半兵衛の居城が構えられた菩提山は、竹中氏陣屋の北西にあります。標高402mの山頂にあり、2.7kmのハイキングコースを登ります。山城跡は、南北約260m・東西最大60mと広大な広さでした。
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- 大桑城へ けんきゃくコース(古城山登山口)
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- 岐阜・中濃
- 山麓の古城山登山口より古城山を登るコース大桑城の遺構を見ながら山頂を目指します。ルートの一部に傾斜の急なところがあり、距離もあることから、体力に自信のある方にお勧めです。山頂までの距離:約2.1km山頂までの時間:約60分~90分バスでお越しの場合は、古城…
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- 伊木山城
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- 岐阜・中濃
- 永禄八年(1565)、織田信長が尾張から美濃に攻め込む際、最初に侵攻した城です。信長は斎藤方の鵜沼城・猿啄城を攻めるため、まず伊木山城を攻略し、足掛かりとしました。伊木山城攻略に活躍した「伊木清兵衛」はその後、池田恒興・池田輝政に仕え、家老として関ヶ原…
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- 濃姫遺髪塚
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- 岐阜・中濃
- 濃姫は、斎藤道三と可児明智城主(現在の可児市)明智三継の娘で才色兼備と言われた小見の方(おみのかた・道三の正室)との間に生まれた。濃姫が信長と結婚後、どのような生活を送ったかは、資料が少ないためほとんどわかっていないが、本能寺の変で信長と共に亡くな…
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- 崇福寺
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- 岐阜・中濃
- 織田信長が斎藤道三の孫の斎藤龍興を亡ぼし1567年美濃に移ると、ここ崇福寺を菩提所とし保護しました。その後、本能寺の変で信長と息子の信忠が明智光秀に討たれると信長の側室お鍋の方がその遺品を送り寺内に埋め位牌を安置させた「織田信長父子廟」があります。堂内…
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- 垂井城跡
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- 西濃
- 垂井城主の平塚為広公は、大谷吉継の配下として関ケ原の合戦に西軍として参戦する。関ケ原の合戦 大谷吉継に代わって活躍するが、力尽きる「垂井の泉」と「大ケヤキ」が隣接してあります。専精寺に石碑はありますが、推定地であり城跡は確認されておいりません。
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- 黒野城跡
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- 岐阜・中濃
- 文禄3年(1594年)、加藤貞泰が美濃国4万国に封じられた際に築城後、慶長5年(1600年)関ケ原の戦いで加藤貞泰は、東軍(徳川方)に属し、慶長15年(1610年)には2万石加増され伯耆国(ほうきのくに)米子6万石の城主になりました。加藤貞泰の転封後は、黒野は加納藩…
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- 杭瀬川古戦場
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- 西濃
- 慶長5年(1600年)9月14日、大垣城を出陣した西軍「島左近・蒲生備中(がもうびっちゅう)」ら軍勢約500人は、一隊を伏せて杭瀬川を渡り、東軍「中村一栄」隊を挑発、出陣してきたところを偽りの退去で誘い込み、これを打ち破りました。杭瀬川の広大な河川敷が、往時…
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- 円徳寺
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- 岐阜・中濃
- 円徳寺は、上加納村長旗(現在の岐阜市長旗付近)にあった浄泉坊が前身といわれています。天文16年(1547年)、織田信秀公(信長の父)が岐阜(当時は井ノ口)に攻め入った際、斎藤道三公に大敗し約5000人の戦死者が出ました。この戦死者を弔うための織田塚が浄泉坊に築…
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- 曽根城跡
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- 西濃
- 西美濃三人衆の稲葉一鉄(いなばいってつ)も城主を務めた曽根城は、関ケ原の合戦当時は西尾光教(にしおみつのり)が城主。光教が東軍に与したため、石田三成は近隣諸将に打ち壊しを命じます。その後、東軍が赤坂に進出すると、松平康長・水野勝成らが入城し、大垣城…
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- 御嵩城址
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- 岐阜・中濃
- 御嵩城には、権現山城と本陣山城の2つの城があり、築城年代は不詳ですが、小栗信濃守という武将の居城だったといわれています。伝承によれば、金山城主森長可は権現山城に大軍をもってたびたび攻め込みましたが、権現様のお使いの白い大蛇が霧を出して阻み、攻略でき…
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- タルイピアセンター・歴史民俗資料館
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- 西濃
- 竹中半兵衛の生涯、中山道と美濃路の追分として賑わった垂井宿などを紹介している。また、古墳の石室を再現しているコーナーもある。
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