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- 戦国・城郭
- 御嵩城址

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- 岐阜・中濃
- 御嵩城には、権現山城と本陣山城の2つの城があり、築城年代は不詳ですが、小栗信濃守という武将の居城だったといわれています。伝承によれば、金山城主森長可は権現山城に大軍をもってたびたび攻め込みましたが、権現様のお使いの白い大蛇が霧を出して阻み、攻略でき…
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- 顔戸城址

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- 岐阜・中濃
- 大河ドラマ「麒麟がくる」で注目を集める可児市北東部から御嵩町西部にかけて存在したとされる明智荘は、古来「明智八郷」と言われており、現在の御嵩町の古屋敷・顔戸、可児市の柿田・渕之上・平貝戸・瀬田・石森・石井の8つの集落を指します。この明智荘には、美濃…
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- 明智城跡

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- 岐阜・中濃
- 岐阜県可児市は、戦国時代、天下統一を目指した織田信長を本能寺の変で倒し、時代の流れを変えた武将である明智光秀の生誕の地。光秀が落城するまでの約30年間を過ごしたとされる明智城は、自然の地形を生かした典型的な中世の山城で、現在は、遊歩道が整備され、ハイ…
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- 可児市戦国山城ミュージアム

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- 岐阜・中濃
- 可児市戦国山城ミュージアムでは、可児市兼山地区に残る国史跡「美濃金山城跡」と城主森氏をはじめ市内各地の山城を紹介しています。本施設は、明治18年(1885年)に竣工した小学校校舎であり、懸け造りの3階建て(南面からは2階造り、北面からは総3階)という造りが…
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- 国史跡 美濃金山城跡

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- 岐阜・中濃
- 市内屈指の展望を誇る可児市の古城山山頂に、道三の養子である斎藤正義によって1537年(天文6年)に烏峰城が築城されたと伝えられています。その後、織田信長の家臣である森可成が信長から城を賜り城主となり、「金山城」に改称され、およそ35年にわたり森氏の居城と…
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- 妻木城士屋敷跡

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- 東濃
- 妻木城のある通称城山の北側の山麓には、御殿と呼ばれる領主の館と家臣の武家屋敷が築かれ、万治元年(1658年)の妻木家断絶まで陣屋として存続しました。屋敷敷地を区切っていた石垣や石段、井戸などが現在も残されており、山麓の御殿跡および武家屋敷は「妻木城士屋敷…
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- 崇禅寺

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- 東濃
- 崇禅寺は臨済宗妙心寺派の寺院で、1354年(文和3年)に、初代妻木城主とされる土岐頼重が、果山禅師を開山として創建しました。妻木城主代々の位牌や墓所があります。岐阜県や土岐市指定の文化財が多数保存されています。
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- 苗木遠山史料館

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- 東濃
- 苗木城と苗木遠山家の貴重な資料を展示しています。苗木城の唯一の建物遺構である風吹門の柱と門扉が保管されているほか、遠山家に伝わる実際に使われていた武具などが展示されています。苗木城復元模型は、建物の様子や縄張りがよくわかり、史料館を見学してから苗木…
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- 史跡 西高木家陣屋跡

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- 西濃
- 近世陣屋として良好に残る石垣・墓所・地下機構・建造物などの現地遺構に加え、絵図類を含む膨大な量の古文書群が残り、近世幕藩領主の姿を豊富な資料によって現在に伝える全国的にも貴重な遺跡です。
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- 上石津郷土資料館

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- 西濃
- 国史跡の西高木家陣屋跡に建つ資料館。上石津で出土した石器、民俗資料、動植物の標本を展示するほか、「島津の退き口」の紹介もしています。
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- 小里城跡

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- 東濃
- 土岐一族の支流である小里氏の居城で、岐阜県指定史跡。戦国時代末期には、小里光明らが織田信長の直臣として活躍しました。山頂部には小里城と安土城にしか見られない多角形の天守台があり「小里城は安土城を建てる前に試しに造られたのではないか」という興味深い説…
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- 興徳寺

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- 東濃
- 小里氏の菩提寺として創建された臨済宗寺院。岐阜県重要文化財である「源頼幸」の墨書名を有する菅公像(菅原道真像)を所蔵しています。
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- 明白寺五輪塔

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- 東濃
- 江戸時代に再興された黄檗宗寺院の境内に所在する瑞浪市内最大の五輪塔で、瑞浪市指定文化財です。鎌倉時代末期~南北朝時代の造立とみられ、一説には土岐頼基(土岐明智氏の祖)の墓とされています。
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- 薩摩池 <島津の退き口ゆかりの地>

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- 西濃
- 島津義弘隊が布陣した際に軍用として使用した小さな池で、古来より水が枯れたことはないと言われています。関ケ原合戦の勝敗がついた後、島津隊は敵中突破の撤退にて、伊勢街道を走り抜けました。
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- 細川忠興陣跡

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- 西濃
- 父・幽斎(藤孝)とともに当代一流の文化人として知られ、千利休の高弟である「利休七哲」にも名を連ねました。豊臣恩顧の武将でしたが、石田三成とは仲が悪く、この関ケ原の合戦では最初から東軍として参戦しました。というのも、徳川家康が会津征伐のため大坂を留守…
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- 田中吉政陣跡

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- 西濃
- 「田中吉政陣跡」の碑は「徳川家康最後陣跡」のすぐ隣にあります。以前は、関ケ原字甲斐墓という場所にあり、現在の陣場野に移されたのは昭和62年のことでした。『関原合戦図志』によると、合戦時の田中隊のはっきりとした布陣地はわかっていないようですが、田中隊は…
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- 奥平貞治の墓

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- 西濃
- JR関ヶ原駅から北西へ約4km弱の場所に「奥平貞治の墓」があります。関ケ原の戦いで貞治は家康の意を受けて、西軍の裏切りを約束していた小早川秀秋隊の監視をしていました。秀秋の裏切りの後には軍の先頭に立って松尾山を攻め降り、大谷勢と奮戦し、玉村あたりで討ち…
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- 平塚為広碑

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- 西濃
- 平塚為広碑は「大谷吉継陣跡」の山を下りて道の東側にあります。関ケ原に隣接した美濃垂井(1万2千石)を治めていたこともあってか、合戦ではいち早く西軍として参戦しました。その背景には大谷吉継と為広が盟友であったという話もあるようで、合戦当日は大谷隊前方に…
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- 山内一豊陣跡

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- 西濃
- 旧中山道沿いにある「山内一豊陣跡」は、大きな松と山内家の三つ葉柏の軍旗が目印です。慶長5年(1600年)に徳川家康に従い会津の上杉景勝討伐の軍に参加した一豊は、関ケ原の戦いに際し、居城の掛川城を明け渡しての出陣となりました。岐阜・大垣の兵と戦い、野上に…
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- 藤堂高虎・京極高知陣跡

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- 西濃
- 現在のJR関ケ原駅から国道21号線を越えたところにある関ケ原中学校の敷地内に、藤堂高虎と京極高知は陣を構えたとされています。両隊は合戦時に福島正則隊に続いて東軍左翼縦隊の第2陣として進軍し、開戦後は不破関跡付近まで進撃して、大谷吉継の隊に属していた平塚…
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