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- 戦国・城郭
- 吉川広家陣跡
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- 西濃
- 毛利軍(毛利秀元)の西軍参加に一族最年長として反対し続け、家康と密かに通じた上で南宮山に布陣する。
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- 小西行長陣跡 北天満山
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- 西濃
- 約6000名の兵を率いて西軍につき、北国街道と東山道(中山道)の間に位置する北天満山に布陣。合戦開始とともに烽火をあげて味方に合戦の合図をしました。西軍諸隊が総崩れした後は、小西隊も敗走。小西行長は揖斐川町方面へ逃亡しますが自首し、京都で石田三成らとと…
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- 福島正則陣跡
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- 西濃
- 福島正則は、石田三成と対立して東軍へ加担。開戦後、宇喜多隊に襲いかかり死闘を繰り広げました。現在、陣跡が残る春日神社境内には、関ケ原合戦屏風にも描かれた樹齢800年の「月見の宮・大杉」が、どっしりとそびえ立っています。また、関ケ原合戦時に福島隊の戦…
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- 大谷吉継顕彰碑
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- 西濃
- 富国強兵を掲げた明治期から戦時色を強めた昭和初期にかけて、関ケ原の合戦は、戦術・戦略研究の対象となり、古戦場では実際に演習も行われました。昭和15年(1940年)、不破古跡保存会によってこの顕彰碑も時代背景を反映し、大谷吉継の最後を武士道の模範と称えるも…
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- 十本木立場
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- 岐阜・中濃
- この場所は当時、人夫が杖を立てて籠や荷物をおろし休憩したところから発展し、茶屋などが設けられ、やがて旅人の休憩場所になったといわれる十本木立場があります。『新撰美濃志』には「十本木茶屋は、木曽路通りの休み茶屋なり。数十株の松樹立ちたる故、かく名づく…
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- 白山神社 (旗懸けの松)
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- 西濃
- 慶長5年(1600年)9月14日、岐阜から赤坂に向かった徳川家康公は、神戸の白山神社で休憩した折、松の大樹に旗を懸けたところから、その松は「旗懸けの松」と呼ばれるようになりました。また、そのとき神戸町八条の禅宗「瑞雲寺」の住職が大きな柿を献上したところ、家…
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- 河田木曽川渡河の戦い跡・木曽川文化資料館
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- 岐阜・中濃
- 岐阜城城主・織田秀信(かつての三法師)を攻めるため木曽川を渡る東軍 (池田輝政・浅野幸長・山内一豊等) とそれを迎撃する西軍 (木造具政・百々綱家等) の戦いです。東軍は、木曽川渡河を決行、木曽川の中洲の小屋場島(現・各務原市)まで進軍し陣を張る。西軍は、…
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- 長束正家陣跡
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- 西濃
- 豊臣秀吉の仕え、高い算術能力で活躍し五奉行の一人。関ケ原の合戦では、伊勢方面から美濃へ転戦し、本戦では、南宮山に陣を構えたが、吉川広家にはばまれ、合戦に参戦することができず、領地である近江水口へ撤退した。
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- 法雲寺 (法雲禅寺)
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- 西濃
- 美濃国最後の守護、土岐頼芸は岐礼郷の東春庵で生涯を終えました。墓が法雲寺門前にあります。
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- 樫原城跡 津島神社
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- 西濃
- 樫原城跡は、令和2年1月の調査で「戦国時代後半の山城」と確認されました。地域に伝わる古い記録には、「永禄のころ、秀吉の長島攻めのとき、樫原に陣を置いた。永禄の頃、三輪三人衆の一人、佐渡が樫原に住んだ。」と書かれています。「明智氏一族宮城家相伝図書」(…
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- 津屋城跡
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- 西濃
- 慶長5年(1600年)8月19日、西軍 高木正家の津屋城は、敗走する高須城兵を追撃した東軍により落城しました。津屋城跡には3年後、高須城主 徳永寿昌の許しを得て本慶寺が移されました。
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- 光秀公手植えの楓
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- 東濃
- 「金幣社八王子神社」境内にある「柿本人麻呂社」は、萬葉の歌人柿本人麻呂を祭神とする社殿です。伝承によれば、文武を志す光秀公が「学問所」には天神を、「八王子神社」には人麻呂を祀り、「社前」に紅葉(楓)を植えたと伝えられています。この社殿には、明智氏の…
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- 白拍子谷 <島津の退き口ゆかりの地>
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- 西濃
- 烏頭坂で重傷を負った島津豊久公を、家臣・川口運右衛門の意を受けた三輪内助入道一斉がこの地に案内したが、豊久公は自刃して果てた。白拍子谷は、伊勢街道(伊勢西街道)を入った名及集落の南を流れる堂木川の対岸にあり、小さな標柱が立つのみで、辺り一帯はひっそ…
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- 清水城址・稲葉一鉄ゆかりの地
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- 西濃
- お城の東門、南側に石垣がわずかに残るだけですが、当時がしのばれます。※ 小学校内の敷地内になるため、見学にはご注意をお願いします。揖斐川町:明智光秀ゆかりの地
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- 素玄寺
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- 飛騨
- 1609年、初代高山城主であった金森長近(かなもりながちか)の菩提寺として、二代目 金森可重(かなもりありしげ)が建立したもの。長近の法号にちなんで素玄寺となりました。敷地内に飛騨郡代の大原彦四郎の墓や、金森家供養塔があります。
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- 大御堂城跡
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- 西濃
- 今から450年程前に生まれ、戦国時代に豊臣秀吉の軍師として智将振りを発揮したものの、惜しくも志半ばの36歳にして病没した。竹中家ゆかりの八幡神社の脇に生誕の地を示す碑が建立されています。隣接する月真寺には、半兵衛の父、竹中重利の墓や、旗本の加藤平内歴代…
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- 奥平貞治の墓・碑
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- 西濃
- 家康の意を受けて西軍裏切りを約束していた小早川隊の監視をしていた奥平貞治。小早川裏切りの後、軍の先頭に立ち松尾山を攻め降りました。大谷勢との激戦に身を挺した結果、討ち死にします。奥平の様に、東軍で命を落とした武将は数少ないと言われています。この墓は…
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- 大塚権太夫の塚
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- 岐阜・中濃
- この塚には、米野の戦いで討死した東軍の武将「一柳直盛」老臣「大塚権太夫」が葬られていると伝わっています。この戦いは、木曽川を渡河する東軍「池田輝政」ら兵約18000と米野付近に布陣した西軍の岐阜城主「織田秀信」の兵約3200によって関ケ原の合戦の前哨戦とし…
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- 垂井一里塚・茶所
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- 西濃
- 垂井一里塚・・・徳川家康は、街道整備のため慶長九(1604)年に主要街道に一里塚の設置を命じた。国の史跡に指定された一里塚は、中山道では垂井一里塚と東京都板橋区志村の一里塚の2ケ所だけ、交通史上重要な遺跡となっている。日守の茶所・・・江戸末期、岩手の美…
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- 東首塚
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- 西濃
- 関ケ原の合戦翌日、勝者となった徳川家康は、戦いで破壊された神社の修復や、首実検に供されたり、戦場に残された夥しい戦死者の処理を竹中重門(しげかど)に命じました。重門は、遺体を埋葬し、東西2カ所に首塚を造営。朱色の門を抜けた敷地内には、スタジイの古木…
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