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- 戦国・城郭
- 権現のぞき
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- 西濃
- この辺り(大垣市河間)を「権現のぞき」と呼んでいたと伝えられています。関ケ原の合戦の時、大垣城に居た西軍 石田三成が、東軍の陣地「岡山(勝山)」を望む望楼を立てました。慶長5年(1600年)9月14日、関ケ原の合戦の前哨戦 杭瀬川の戦いにも使われま…
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- 美濃路の松並木
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- 西濃
- 垂井宿~大垣宿~墨俣宿~起宿~萩原宿~稲葉宿~清須宿~名古屋宿~宮宿と続く脇街道「美濃路」の起点。「中山道」と「東海道」を結ぶ、五街道に次ぐ重要な脇街道。☆「美濃路」は、中山道の垂井宿から、東海道の宮宿(名古屋市熱田)までの約57.5kmの街道。 &nb…
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- 栗原九十九坊跡(長宗我部盛親陣跡)
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- 西濃
- 栗原九十九坊跡は、栗原山の山頂部から東山麓に広がる大規模な寺院群です。栗原九十九坊跡との関係が想定される清水寺跡に近接しています。長宗我部元親の四男、父の死後、地家督を継ぐ。当初、東軍に与するつもりだったというが、行きがかり上、西軍に属することとな…
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- 興徳寺
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- 東濃
- 小里氏の菩提寺として創建された臨済宗寺院。岐阜県重要文化財である「源頼幸」の墨書名を有する菅公像(菅原道真像)を所蔵しています。
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- ぎふ里山景観研究所
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- 岐阜・中濃
- "山県市を中心とした里山の資源を生かして、「交流人口の拡大」「農業の活性化」「地域との連携」「環境教育」「地域ブランドの認知度向上」などにより、里山に新たな価値を生み出し、里山景観を持続的に維持していくことを目指して、次のような事業を行います。…
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- 奥平貞治の墓・碑
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- 西濃
- 家康の意を受けて西軍裏切りを約束していた小早川隊の監視をしていた奥平貞治。小早川裏切りの後、軍の先頭に立ち松尾山を攻め降りました。大谷勢との激戦に身を挺した結果、討ち死にします。奥平の様に、東軍で命を落とした武将は数少ないと言われています。この墓は…
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- 小西行長陣跡 北天満山
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- 西濃
- 約6000名の兵を率いて西軍につき、北国街道と東山道(中山道)の間に位置する北天満山に布陣。合戦開始とともに烽火をあげて味方に合戦の合図をしました。西軍諸隊が総崩れした後は、小西隊も敗走。小西行長は揖斐川町方面へ逃亡しますが自首し、京都で石田三成らとと…
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- 藤堂高虎・京極高知陣跡
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- 西濃
- 藤堂高虎・京極高知の両隊は、福島正則隊に続いて東軍の左翼縦隊の第2陣として進軍します。関ケ原の合戦・開戦後、不破関跡付近まで進撃し、大谷吉継の隊に属していた平塚為広と交戦。小早川隊の裏切りを合図に、共に大谷隊を破りました。<岐阜関ケ原古戦場記念館 …
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- 十本木立場
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- 岐阜・中濃
- この場所は当時、人夫が杖を立てて籠や荷物をおろし休憩したところから発展し、茶屋などが設けられ、やがて旅人の休憩場所になったといわれる十本木立場があります。『新撰美濃志』には「十本木茶屋は、木曽路通りの休み茶屋なり。数十株の松樹立ちたる故、かく名づく…
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- 史跡 西高木家陣屋跡
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- 西濃
- 近世陣屋として良好に残る石垣・墓所・地下機構・建造物などの現地遺構に加え、絵図類を含む膨大な量の古文書群が残り、近世幕藩領主の姿を豊富な資料によって現在に伝える全国的にも貴重な遺跡です。
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- 明白寺五輪塔
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- 東濃
- 江戸時代に再興された黄檗宗寺院の境内に所在する瑞浪市内最大の五輪塔で、瑞浪市指定文化財です。鎌倉時代末期~南北朝時代の造立とみられ、一説には土岐頼基(土岐明智氏の祖)の墓とされています。
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- 福束城跡 福満寺
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- 西濃
- かつて舟運の拠点だった城跡、福満寺は、寛正元年(1459)に僧盛道の開基の真宗大谷派の寺院で本尊は阿弥陀如来です。福満寺には、旧福束城を記録した「古版木」が残っています。版木の図柄は、中央に福満寺の本堂を画き、左に丸毛兵庫頭の墓、右に鎮守佐々木大神宮、…
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- 北塚
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- 西濃
- 輪之内町東大藪の北部、大藪地内の田んぼの中に、一畝ほど小高く土を盛り上げた塚(現在は史跡として整備しています)。関ケ原の合戦の最初の前哨戦「福束城の戦い」において戦死した東西両軍の死者をあわれんで土地の人たちが埋葬して成仏を祈った塚。お堂の仏様には…
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- 大塚権太夫の塚
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- 岐阜・中濃
- この塚には、米野の戦いで討死した東軍の武将「一柳直盛」老臣「大塚権太夫」が葬られていると伝わっています。この戦いは、木曽川を渡河する東軍「池田輝政」ら兵約18000と米野付近に布陣した西軍の岐阜城主「織田秀信」の兵約3200によって関ケ原の合戦の前哨戦とし…
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- 光秀公手植えの楓
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- 東濃
- 「金幣社八王子神社」境内にある「柿本人麻呂社」は、萬葉の歌人柿本人麻呂を祭神とする社殿です。伝承によれば、文武を志す光秀公が「学問所」には天神を、「八王子神社」には人麻呂を祀り、「社前」に紅葉(楓)を植えたと伝えられています。この社殿には、明智氏の…
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- 於牧の方の墓所
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- 東濃
- 悲運の最期をとげた、於牧の方を偲び、里人の民が建立したとされています。将軍徳川吉宗によって制定された「公事方御定書」の翌年、1743年に建立された石塔には、当時の世評をはばかって「南無阿弥陀如来」とだけ刻まれ、樹齢400年を超える老樹「高野槙」を於牧の方…
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- 佐藤才治郎方政公 及び 武将の塔
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- 岐阜・中濃
- 「佐藤才治郎方政」公は、鉈尾山城3代目城主で美濃上有知一帯を治めていた戦国武将。新加納の戦いにおいて、織田秀信と共に敗れ後、大垣城に入り西軍に属しました。関ケ原の合戦が、西軍敗戦で領地没収となり、「高澤観音 日龍峯寺」において従臣と共に割腹自害とな…
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- 卜全澤
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- 西濃
- 三人衆の稲葉一鉄、安藤守就と共にかつて仕えた斎藤家への信長の稲葉山城攻めに参加。その後、信長に仕えた頃に出家、名を「直元」から「卜全」と号する。各地で活躍し、長島一向一揆を鎮めるため長島進行(第一次進行)時の柴田勝家に従う。その際、反撃に遭い殿軍を…
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- 清水城址・稲葉一鉄ゆかりの地
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- 西濃
- お城の東門、南側に石垣がわずかに残るだけですが、当時がしのばれます。※ 小学校内の敷地内になるため、見学にはご注意をお願いします。揖斐川町:明智光秀ゆかりの地
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- 美濃路一里塚
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- 西濃
- 慶長9年、徳川家康は日本橋を起点に主要道路の一里ごとに塚を築いた。後に脇街道にも築き、五間(約9m)を基準に、塚の上に榎や松を植えて旅人に便利を与えた。(かつて入方から町屋まで約1300mの間は立派な松並木があったが昭和17年頃、軍需の松根油などを作るため…
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