岐阜の
スポット・体験を探す
- 現在の検索条件
- 戦国・城郭
- 西首塚
-
- 西濃
- 関ケ原一帯を領していた竹中重門は、関ケ原の合戦翌日、戦いによって壊れた神社や戦死者の処理を家康に命じられ、東西2カ所に首塚を造営しました。寛政5(1793)年に西首塚の敷地内に建立された観音堂には、馬頭観音や千手観音が安置されています。
- more
- 龍護寺
-
- 東濃
- 明智光秀公供養塔 明知遠山家の菩提寺である龍護寺に、明智光秀公の供養塔があります。 光秀公に関する碑は、「その悲痛な思いで」ことごとく割れるといった通説どおり、斜めに大きくひび割れが入っています。 毎年5月3日には、光秀まつりとあわせて、明智光秀公…
- more
- 今尾城跡
-
- 西濃
- 東軍 市橋長勝の居城。長勝は、福束城の戦いで奇計をめぐらし、東軍を勝利に導きました。今尾小学校のあたりが本丸跡で、校内に石碑と案内板があります。南美濃の戦いでは、松ノ木城主・徳永寿昌と共に福束城(城主 丸茂兼利)を落城させます。今尾藩初代当主の竹腰…
- more
- 毛利秀元陣跡
-
- 西濃
- 毛利秀元は、穂井田元清(毛利元就の四男・毛利元清)の長男として生まれる。関ケ原合戦では、西軍に属し毛利輝元の名代として南宮山に布陣。一族の吉川広家らの内通により、合戦では動けず参加できませんでした。(西軍敗戦の要因の1つ)合戦後は、吉川広重の思惑が…
- more
- 菩提山城跡
-
- 西濃
- 竹中半兵衛の居城が構えられた菩提山は、竹中氏陣屋の北西にあります。標高402mの山頂にあり、2.7kmのハイキングコースを登ります。山城跡は、南北約260m・東西最大60mと広大な広さでした。
- more
- 長寿院盛淳の墓・琳光寺
-
- 西濃
- 島津義弘公の家老・長寿院盛淳は、島津豊久公に次いで捨て奸(すてがまり)を行い、義弘公から賜った陣羽織を身につけ、「我こそは義弘也」と名乗り、主君の身代わりとなって討ち死にしました。琳光寺には、盛淳公を悼んで宝暦治水の薩摩藩士が刻んだ五輪塔と、子孫が…
- more
- 濃姫遺髪塚
-
- 岐阜・中濃
- 濃姫は、斎藤道三と可児明智城主(現在の可児市)明智三継の娘で才色兼備と言われた小見の方(おみのかた・道三の正室)との間に生まれた。濃姫が信長と結婚後、どのような生活を送ったかは、資料が少ないためほとんどわかっていないが、本能寺の変で信長と共に亡くな…
- more
- 関ケ原町歴史民俗学習館
-
- 西濃
- 2020年10月にリニューアルし、関ケ原町歴史民俗学習館として新しい施設になりました。「岐阜関ケ原古前城記念館」と共に、関ケ原町の郷土・歴史を大切にし、教育的視点・体験的要素要素を重視した施設です。全国の歴史ファンが集い、歴史を学び、語ることができる施設…
- more
- 松平忠吉・井伊直政陣跡
-
- 西濃
- 関ケ原の合戦で、井伊直政は事実上の総大将で先鋒役の意識が強く、直政の娘婿で初陣でもある松平忠吉に手柄を立てさせたい一心でした。東軍先鋒は、福島隊と決まっていましたが、午前8時頃に福島隊の先頭隊長の可児才蔵の制止を振り切り、宇喜多隊へ発砲し開戦となり…
- more
- 禅幢寺
-
- 西濃
- 永禄元年(1558)竹中氏が6000貫の領主となり、竹中半兵衛は、父重元と共に菩提山に城を築きました。天正7年(1579)播州三木(現在の兵庫県三木市)の陣において行年36歳の若さで病没した半兵衛の菩提を弔うために、その子重門がこのお寺に墓を移しました。お寺の背…
- more
- 池田恒興・元助父子の墓
-
- 西濃
- 織田信長の乳兄弟であった池田恒興は、信長の死後大垣城主となった武将。清須会議四宿老のひとりとしても著名です。子の輝政は父の後を継ぎ、大垣城主を経て、後に姫路城主となりますが、父子は長久手の合戦で戦死し、池田町に葬られました。池田のお茶は、そんな池田…
- more
- 卜全塚(氏家卜全の墓)【海津市】
-
- 西濃
- 氏家卜全は、戦国末期の大垣城主で織田信長に仕えており、当時西美濃三人衆といわれた実力者の一人でした。元亀元(1570)年、伊勢長島で勢力を誇っていた願証寺の門徒六万余は織田信長に反抗していた石山本願寺の寺に応じ尾張に攻め込んで織田信興(信長の弟)を…
- more
- 高須城跡
-
- 西濃
- 慶長5年(1600年)8月19日、西軍 高木盛兼の高須城は、福束城を落とした徳永寿昌に欺かれて落城しました。高須城跡公園を含む周辺一帯が、城跡で散策コースも整備されています。
- more
- 森部の合戦場跡と出世の松(利家とまつ)
-
- 西濃
- 永禄4(1561)年、織田信長は西美濃を征服しようと、本郷村より長良川を渡って森部村に進出、斎藤龍興の軍と戦いました。斎藤軍6千に対し、織 田軍1万5千で対戦。墨俣の下宿から押し寄せてきた斉藤軍を織田軍は、味方を三手に分け敵をはさみうちにして破りま…
- more
- 御嵩城址
-
- 岐阜・中濃
- 御嵩城には、権現山城と本陣山城の2つの城があり、築城年代は不詳ですが、小栗信濃守という武将の居城だったといわれています。伝承によれば、金山城主森長可は権現山城に大軍をもってたびたび攻め込みましたが、権現様のお使いの白い大蛇が霧を出して阻み、攻略でき…
- more
- 薩摩池 <島津の退き口ゆかりの地>
-
- 西濃
- 島津隊が、布陣した際に軍用として使用した小さな池です。古来より水が枯れたことはないと言われています。これより、伊勢街道を走り続ける!!
- more
- 島津塚 <島津の退き口ゆかりの地>
-
- 西濃
- 関ケ原の合戦の撤退戦「島津の退き口」で殿軍を務め、叔父 島津義弘の身代わりとなりこの地で討死した島津豊久公の墓所です。瑠璃光禅寺西の森(カンリンヤブ)の中に、島津塚(薩摩塚)と呼ばれる島津豊久公の五輪塔が祀られています。上多良公民館の向かい側にあり…
- more
- 大雄寺
-
- 飛騨
- もとは吉城郡上広瀬村(現高山市国府町)にありましたが、1586年に金森長近によって、現在の地に移され、浄土宗の寺となりました。鐘堂は1689年に建てられた飛騨地方最古のものです。
- more
- 立政寺
-
- 岐阜・中濃
- 東海地方の中世浄土宗の一大中心地として栄えた寺。明智光秀公と細川藤孝公の仲介により、織田信長公が、戦国最後の将軍となる直前の足利義昭公をこの寺に迎えている。又、徳川家康公も関ケ原の合戦の時に立ち寄っている。
- more
- 大谷吉継顕彰碑
-
- 西濃
- 富国強兵を掲げた明治期から戦時色を強めた昭和初期にかけて、関ケ原の合戦は、戦術・戦略研究の対象となり、古戦場では実際に演習も行われました。昭和15年(1940年)、不破古跡保存会によってこの顕彰碑も時代背景を反映し、大谷吉継の最後を武士道の模範と称えるも…
- more