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- 戦国・城郭
- 桃配山・徳川家康最初陣跡

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- 西濃
- 東軍の総大将・徳川家康は、慶長5(1600)年9月14日に岡山(後に「勝山」と呼ばれる。岐阜県大垣市)へ着陣し、翌15日の午前に桃配山(岐阜県関ケ原町)に布陣しました。桃配山は、関ケ原合戦以前の壬申の乱にて、勝者である大海人皇子が野上行宮より出陣し陣を敷いた…
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- 南天満山・宇喜多秀家陣跡

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- 西濃
- 杉の木立がうっそうとした南天満山の麓に天満神社があります。関ケ原合戦時には、この付近に兵約1万7千という西軍の主力部隊を布陣し、副総帥として参戦した宇喜多秀家。開戦の烽火と共に東軍・福島隊に攻め込まれた史実から、この辺りは大変に激しい戦いが繰り広げら…
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- 島津塚 <島津の退き口ゆかりの地>

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- 西濃
- 関ケ原の合戦の撤退戦「島津の退き口」で殿軍を務め、叔父 島津義弘の身代わりとなりこの地で討死した島津豊久公の墓所です。瑠璃光禅寺西の森(カンリンヤブ)の中に、島津塚(薩摩塚)と呼ばれる島津豊久公の五輪塔が祀られています。上多良公民館の向かい側にあり…
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- 鶴ヶ城跡

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- 東濃
- 明智光秀を輩出した土岐一族によって築城されたと伝わり、岐阜県指定史跡にも登録されています。天正10年(1582年)、織田勢の甲斐への侵攻(武田征伐)の際に信長とともに明智光秀も鶴ヶ城に立ち寄ったといわれています。鶴ヶ城は、武田氏に対する織田方の中心的な砦でし…
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- 久々利城跡

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- 岐阜・中濃
- 久々利城は、美濃に勢力を誇った土岐氏の支流である久々利氏の居城と伝えられています。正確な築城年代は不明ですが、築城された時期の上限は14世紀半ばの南北朝時代まで遡ることができます。天正11年(1583)、美濃金山城主である森長可の手により落城しました。築城…
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- 関ケ原古戦場 開戦地

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- 西濃
- 関ケ原合戦当日の朝、霧が薄くなったのをきっかけに松平・井伊隊が、先峰の福島隊の脇を通り抜け、宇喜多隊の前へ進出し発砲。この井伊隊の抜け駆けに怒った福島正則が、宇喜多隊に対して一斉射撃を行い、この開戦地で関ケ原合戦開戦の火ぶたが切られました。「徳川四…
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- 杭瀬川古戦場

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- 西濃
- 慶長5年(1600年)9月14日、大垣城を出陣した西軍「島左近・蒲生備中(がもうびっちゅう)」ら軍勢約500人は、一隊を伏せて杭瀬川を渡り、東軍「中村一栄」隊を挑発、出陣してきたところを偽りの退去で誘い込み、これを打ち破りました。杭瀬川の広大な河川敷が、往時…
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- 連理の榊

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- 西濃
- 国の天然記念物指定を受けたサカキで、推定樹齢300~400年の大木。根本は二幹に分かれていますが、枝が絡み合って一体になっていることから、連理の榊とわれています。関ヶ原合戦時には西軍の長宗我部盛親がこの辺りに陣を張りました。
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- 素玄寺

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- 飛騨
- 1609年、初代高山城主であった金森長近(かなもりながちか)の菩提寺として、二代目金森可重(かなもりありしげ)が建立したもの。長近の法号にちなんで素玄寺となりました。金森家ゆかりの寺として知られ、長近が用いていた軍扇や采配等のほか、肖像画を所蔵していま…
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- 薩摩池 <島津の退き口ゆかりの地>

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- 西濃
- 島津義弘隊が布陣した際に軍用として使用した小さな池で、古来より水が枯れたことはないと言われています。関ケ原合戦の勝敗がついた後、島津隊は敵中突破の撤退にて、伊勢街道を走り抜けました。
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- 竹ヶ鼻城跡

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- 岐阜・中濃
- 羽島市歴史民俗資料館(竹鼻別院前)の敷地内に竹ヶ鼻城跡の石標は立っています。応仁年間に武腰伊豆守が竹ヶ鼻城を築城したと云われています。その後、不破源六広綱が城主時代に、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)による「水攻め」があったことで知られてます。竹ヶ鼻城跡の…
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- 黒田長政お手植えの銀杏の木・五明稲荷神社

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- 西濃
- 天正6年(1578)、羽柴秀吉が播磨平定を進める中三木城攻めのおり、織田家家臣の荒木村重が摂津で謀反を企てました。村重と旧知であり、秀吉の部下であった黒田官兵衛が説得に当たりましたが、逆に石牢に幽閉されてしまいます。黒田官兵衛が裏切り村重に寝返ったと判断…
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- 春日局出生地 (春日局公園)

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- 西濃
- 春日局公園徳川家光 公の乳母として、大奥の基盤を整えたと知られている「春日局(= お福)」母の兄は、「明智光秀」公 ・・・ とも言われています。父の「斎藤利三」公は、「明智光秀」公の重臣として本能寺の変、山崎の合戦で行動を共にした白樫城主(揖斐川…
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- 土岐頼貞の墓

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- 東濃
- 南北朝時代に美濃国守護となった土岐頼貞とその一族の墓です。この辺りは、江戸時代には中島村と呼ばれ興禅寺(光善寺)跡とも言われています。墓所は道路によって東西に分断され、東側は五輪塔10基、西側には五輪塔5基と宝篋印塔4基があります。頼貞の墓には「暦二年…
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- 島津越え(五僧峠)<島津の退き口ゆかりの地>

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- 西濃
- 鈴鹿山系を縫うように広がる時山は、駒野越えで再び上石津に入った島津義弘本隊が、途中出会った織田秀信家臣の小林新六郎の案内で五僧峠を越えて近江高宮に向かった。険しい山道を上り、五僧峠を越えて甲賀から堺浦に出て船で薩摩に帰ったと記されています。五僧峠は…
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- 可児市観光交流館

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- 岐阜・中濃
- 山城めぐりの拠点施設及び観光案内所として、平成30年4月にリニューアルオープンしました。館内1階は、戦国時代の本陣をイメージした内装であり、陣幕や甲冑、槍や弓などが展示されています。展示の甲冑はすべて着ることができ、さらに、甲冑や忍装束を着て、美濃…
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- 織田塚

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- 岐阜・中濃
- 天文16年(1547年)、織田信長の父・信秀が岐阜(当時は井ノ口)に攻め入った際、斎藤道三に大敗し、信長の叔父・信康を始めとした5,000人ともいわれる戦死者が出ました。この戦死者を弔うための織田塚が築かれました。現在、織田塚は円徳寺境内(浄泉坊)と岐阜市霞町…
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- 上石津郷土資料館

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- 西濃
- 国史跡の西高木家陣屋跡に建つ資料館。上石津で出土した石器、民俗資料、動植物の標本を展示するほか、「島津の退き口」の紹介もしています。
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- 立政寺

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- 岐阜・中濃
- 東海地方の中世浄土宗の一大中心地として栄えた寺。明智光秀公と細川藤孝公の仲介により、織田信長公が、戦国最後の将軍となる直前の足利義昭公をこの寺に迎えている。又、徳川家康公も関ケ原の合戦の時に立ち寄っている。
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- 大谷吉継の墓・湯淺五助の墓

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- 西濃
- 「大谷吉継の墓」は、平塚為広の碑より山道を15分ほど登った場所にあります。その墓はひっそりと吉継の側近「湯淺五助の墓」と一緒に建っています。石田三成の盟友だった大谷吉継は、病身を押して関ケ原の合戦に参戦し、三成への『義』を貫きます。吉継は藤堂・京極隊…
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