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- 戦国・城郭
- 勝地峠 <島津の退き口ゆかりの地>
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- 西濃
- 標高183mの峠の麓で島津豊久隊は、最後の捨て奸(がまり)を行い、川上四郎衛のごうれいを受けた柏木源藤は、追撃する井伊直正の狙撃に見事成功しました。その後、東軍の追撃はようやく中止。島津豊久公は、残兵の助けを借りながら伊勢西街道「勝地峠」を越えました。
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- 明智光秀公学問所と天神神社
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- 東濃
- 万ヶ洞にある天神神社は、明智光秀公が若かりし頃、京都嵯峨天竜寺の雲水・勝恵という学僧を招き、ここで学問に精進したと言われています。祭神は菅原道真公であり、京都北野の天満宮からの分祀と伝えられています。
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- 長松城跡
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- 西濃
- 大垣市荒崎小学校付近が、竹中半兵衛の同族 竹中一族ゆかりの城「長松城」の跡と考えられており「長松城址」の標石が立てられています。ここは同城堀のうちの一部であり、古城図を見ると旧長松村の集落全体が、城郭の形を成しています。その城郭を囲むように曲がり角…
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- 加賀野井城跡
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- 岐阜・中濃
- 慶長5年(1600年)8月22日、木曽川下流の尾越に向かった福島正則・細川忠興・黒田長政・田中吉政・藤堂高虎らの東軍約16000は、対岸に西軍が柵を設けて待ち構えているため、さらに下流の加賀野井から密かに渡河し、城主不在の加賀野井城を瞬く間に落としました。加賀…
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- 大桑城へ はじかみコース(はじかみ林道登山口)
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- 岐阜・中濃
- はじかみ林道の峠にある登山口より古城山を登るコースの入口です。ルートの大半は緩やかで、距離も長くならないことから、古城山山頂からの雄大な眺めを楽しみたい方にお勧めです。山頂までの距離:約750m山頂までの時間:約20分~30分は必要登山口には、お手洗いはあ…
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- 東首塚
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- 西濃
- JR関ケ原駅のすぐ西の跨線橋を渡ると、左手に広葉樹の森がありその中に「東首塚」があります。朱色の大きな門を抜けると、その奥にスダジイの大木が茂った塚があります。この塚は関ケ原合戦後、徳川家康が床几場で首実検をし、その後東西2ヶ所に埋葬したことから「東…
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- 駒野城跡
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- 西濃
- 慶長5年(1600年)8月19日、高須城を落とした東軍が攻め寄せたため、駒野城主 高木帯刀(たかぎたてわき)は、同族の高木貞友の説得を受けて開城しました。城山小学校の敷地内に本丸と土塁、二の丸の一部が残されています。※城山小学校の敷地内になるため、敷地内に…
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- 竹ヶ鼻城跡
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- 岐阜・中濃
- 羽島市歴史民俗資料館(竹鼻別院前)の敷地内に竹ヶ鼻城跡の石標は立っています。応仁年間に武腰伊豆守が竹ヶ鼻城を築城したと云われています。その後、不破源六広綱が城主時代に、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)による「水攻め」があったことで知られてます。竹ヶ鼻城跡の…
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- 高原郷土館(神岡城)
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- 飛騨
- 町並みを見渡せる高台にある高原郷土館は、神岡城・旧松葉家住宅・鉱山資料館の3施設からなります。かつて、金森氏の出城として使われた神岡城。現在の天守閣は、昭和45年に神岡町のシンボルとして建てられましたが、当時の遺構を残す壕や石塁などは、戦乱の往事を思…
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- 崇禅寺
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- 岐阜・中濃
- 崇禅寺は臨済宗妙心寺派の寺院で、1354年(文和3年)に、初代妻木城主とされる土岐頼重が、果山禅師を開山として創建しました。妻木城主代々の位牌や墓所があります。岐阜県や土岐市指定の文化財が多数保存されています。
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- 平塚為広碑
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- 西濃
- 平塚為広碑は「大谷吉継陣跡」の山を下りて道の東側にあります。関ケ原に隣接した美濃垂井(1万2千石)を治めていたこともあってか、合戦ではいち早く西軍として参戦しました。その背景には大谷吉継と為広が盟友であったという話もあるようで、合戦当日は大谷隊前方に…
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- 山内一豊陣跡
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- 西濃
- 旧中山道沿いにある「山内一豊陣跡」は、大きな松と山内家の三つ葉柏の軍旗が目印です。慶長5年(1600年)に徳川家康に従い会津の上杉景勝討伐の軍に参加した一豊は、関ケ原の戦いに際し、居城の掛川城を明け渡しての出陣となりました。岐阜・大垣の兵と戦い、野上に…
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- 鶴ヶ城跡
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- 東濃
- 明智光秀を輩出した土岐一族によって築城されたと伝わり、岐阜県指定史跡にも登録されています。天正10年(1582年)、織田勢の甲斐への侵攻(武田征伐)の際に信長とともに明智光秀も鶴ヶ城に立ち寄ったといわれています。鶴ヶ城は、武田氏に対する織田方の中心的な砦でし…
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- 北天満山・小西行長陣跡
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- 西濃
- 小西行長は約6000名の兵を率いて西軍につき、北国街道と東山道(中山道)の間に位置する北天満山に布陣し、合戦開始とともに烽火をあげて味方に合戦の合図をしました。西軍諸隊が総崩れした後は揖斐川町方面へ敗走しましたが、その後自首し、京都で石田三成らとともに…
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- 南天満山・宇喜多秀家陣跡
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- 西濃
- 杉の木立がうっそうとした南天満山の麓に天満神社があります。関ケ原合戦時には、この付近に兵約1万7千という西軍の主力部隊を布陣し、副総帥として参戦した宇喜多秀家。開戦の烽火と共に東軍・福島隊に攻め込まれた史実から、この辺りは大変に激しい戦いが繰り広げら…
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- 福島正則陣跡
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- 西濃
- 福島正則は秀吉子飼いの大名でありながら 、石田三成と対立して東軍へ加担し、関ケ原合戦の開戦後、宇喜多隊に襲いかかり死闘を繰り広げました。現在、陣跡が残る春日神社境内には、関ケ原合戦屏風にも描かれた樹齢800年の「月見の宮・大杉」が、どっしりとそびえ…
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- 樫原城跡 津島神社
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- 西濃
- 樫原城跡は、令和2年1月の調査で「戦国時代後半の山城」と確認されました。地域に伝わる古い記録には、「永禄のころ、秀吉の長島攻めのとき、樫原に陣を置いた。永禄の頃、三輪三人衆の一人、佐渡が樫原に住んだ。」と書かれています。「明智氏一族宮城家相伝図書」(…
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- 無動寺の戦い跡 光得寺 梵鐘
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- 岐阜・中濃
- 天文13年(1544年)8月、斉藤道三と尾張(現愛知県)の織田信秀(織田信長)の父との戦いの地。織田勢5000余人は、越前の朝倉勢7000余人と相呼応して、8月15日を期して稲葉山を挾撃します。斉藤道三の娘婿である土岐頼香(よりたか)を大将にして、無動寺村の安養山光…
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- 大良の戦い 金矮鶏神社・大浦城跡・大浦の蛇
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- 岐阜・中濃
- 大浦城跡(大浦の寺砦跡)は、一名聖徳寺砦とも言われています。弘治2年(1556年)4月、織田信長(道三の娘婿)は、斎藤道三と嫡子 義龍が争った「長良川の戦い」に道三の援軍として木曽川を越え「大良(現・岐阜県羽島市正木町大浦周辺)」へ進軍します。父 道三を破…
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- 浅野幸長陣跡
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- 西濃
- 浅野幸長は、五奉行・浅野長政(北政所の義兄)の長男として生まれ、豊臣家とは親戚関係。秀吉の死後、五奉行の石田三成と対立、石田三成襲撃事件に参加。関ケ原の戦いでは、豊臣秀吉恩顧でありながら父長政と共に東軍に参加し、先鋒を務め岐阜城攻略。本戦では、現在…
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