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- 戦国・城郭
- 島津義弘陣跡<島津の退き口ゆかりの地>

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- 西濃
- 神明神社裏側に「島津義弘陣跡」はあり、西軍布陣地のほぼ中央部に位置しています。島津隊はわずか800名程度ともいわれる少数部隊で、鉄砲を巧妙に使って戦い、陣中では壕も掘らず、柵も作らず、鉄砲隊は交互に入れ替わり狙撃し、騎馬隊を打ち落としていたといわれて…
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- 松平忠吉・井伊直政陣跡

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- 西濃
- 関ケ原の合戦で、井伊直政は事実上の総大将で先鋒役の意識が強く、直政の娘婿で初陣でもある松平忠吉(徳川家康の四男)に手柄を立てさせたい一心でした。東軍先鋒は、福島隊と決まっていましたが、午前8時頃に福島隊の先頭隊長の可児才蔵の制止を振り切り、宇喜多隊…
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- 北天満山・小西行長陣跡

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- 西濃
- 小西行長は約6000名の兵を率いて西軍につき、北国街道と東山道(中山道)の間に位置する北天満山に布陣し、合戦開始とともに烽火をあげて味方に合戦の合図をしました。西軍諸隊が総崩れした後は揖斐川町方面へ敗走しましたが、その後自首し、京都で石田三成らとともに…
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- 黒田長政・竹中重門陣跡 / 岡山 ( 丸山 ) 烽火場

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- 西濃
- 標高164mの丘陵地・岡山に竹中重門は、黒田長政とともに陣を取り戦機を見て狼煙を上げました。ここは、戦況が把握しやすく関ケ原の合戦の「開戦の狼煙」を上げるには好適地。現在も山頂からは関ケ原のまちや辺り一帯を一望することができます。~黒田と竹中の不思議…
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- 南天満山・宇喜多秀家陣跡

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- 西濃
- 杉の木立がうっそうとした南天満山の麓に天満神社があります。関ケ原合戦時には、この付近に兵約1万7千という西軍の主力部隊を布陣し、副総帥として参戦した宇喜多秀家。開戦の烽火と共に東軍・福島隊に攻め込まれた史実から、この辺りは大変に激しい戦いが繰り広げら…
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- 福島正則陣跡

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- 西濃
- 福島正則は秀吉子飼いの大名でありながら 、石田三成と対立して東軍へ加担し、関ケ原合戦の開戦後、宇喜多隊に襲いかかり死闘を繰り広げました。現在、陣跡が残る春日神社境内には、関ケ原合戦屏風にも描かれた樹齢800年の「月見の宮・大杉」が、どっしりとそびえ…
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- 大谷吉継の墓・湯淺五助の墓

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- 西濃
- 「大谷吉継の墓」は、平塚為広の碑より山道を15分ほど登った場所にあります。その墓はひっそりと吉継の側近「湯淺五助の墓」と一緒に建っています。石田三成の盟友だった大谷吉継は、病身を押して関ケ原の合戦に参戦し、三成への『義』を貫きます。吉継は藤堂・京極隊…
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- 大谷吉継陣跡

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- 西濃
- 「大谷吉継陣跡」は、山中(やまなか)の「大谷吉継の墓」から少し下った場所にあり、ひっそりと碑が建っています。大谷隊は、関ケ原の合戦が始まる十日程前に「若宮八幡宮」上の急斜面に陣を作り始めました。この陣は、空堀を左右に巡らせ、山中城と呼ばれるほどの要害の地で…
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- 松尾山城跡・小早川秀秋陣跡

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- 西濃
- 松尾山城は小早川秀秋が布陣した山城としても有名です。関ケ原の戦いにおいて、優柔不断の裏切り者と酷評されることが多い小早川秀秋ですが、実際には勇猛果敢で、領民からも慕われる統治手腕を持った有能な武将だったといいます。当時19歳という若さで1万5千の兵を従…
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- 東首塚

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- 西濃
- JR関ケ原駅のすぐ西の跨線橋を渡ると、左手に広葉樹の森がありその中に「東首塚」があります。朱色の大きな門を抜けると、その奥にスダジイの大木が茂った塚があります。この塚は関ケ原合戦後、徳川家康が床几場で首実検をし、その後東西2ヶ所に埋葬したことから「東…
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- 西首塚

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- 西濃
- 「西首塚」は、JR関ケ原駅前から国道21号線を西へ700mほど行ったところにあります。「東首塚」と同様、当時この地の領主であった竹中重門が徳川家康の命により、関ケ原の戦いで戦死した兵士たちを埋葬しました。現在は高さ2m、周囲30m程の塚ですが、JR東海道本線の敷…
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- 竹中半兵衛公生誕之地

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- 西濃
- 大野町公郷は秀吉旗下の天才軍師、竹中半兵衛重治の出生地と伝えられてきました。半兵衛の出生地には諸説ありますが、垂井町明泉寺から発見された古文書「過現二世牒」には、半兵衛重治は、天文13年(1544)、竹中遠江守重元の長子として、大御堂城(現大野町公郷)に…
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- 大塚権太夫の塚

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- 岐阜・中濃
- この塚には、米野の戦いで討死した東軍の武将「一柳直盛」老臣「大塚権太夫」が葬られていると伝わっています。この戦いは、木曽川を渡河する東軍「池田輝政」ら兵約18000と米野付近に布陣した西軍の岐阜城主「織田秀信」の兵約3200によって関ケ原の合戦の前哨戦とし…
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- 権現のぞき

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- 西濃
- この辺り(大垣市河間)を「権現のぞき」と呼んでいたと伝えられています。関ケ原の合戦の時、大垣城に居た西軍 石田三成が、東軍の陣地「岡山(勝山)」を望む望楼を立てました。慶長5年(1600年)9月14日、関ケ原の合戦の前哨戦 杭瀬川の戦いにも使われま…
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- 樫原城跡 津島神社

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- 西濃
- 樫原城跡は、令和2年1月の調査で「戦国時代後半の山城」と確認されました。地域に伝わる古い記録には、「永禄のころ、秀吉の長島攻めのとき、樫原に陣を置いた。永禄の頃、三輪三人衆の一人、佐渡が樫原に住んだ。」と書かれています。「明智氏一族宮城家相伝図書」(…
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- 無動寺の戦い跡 光得寺 梵鐘

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- 岐阜・中濃
- 天文13年(1544年)8月、斉藤道三と尾張(現愛知県)の織田信秀(織田信長)の父との戦いの地。織田勢5000余人は、越前の朝倉勢7000余人と相呼応して、8月15日を期して稲葉山を挾撃します。斉藤道三の娘婿である土岐頼香(よりたか)を大将にして、無動寺村の安養山光…
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- 乱闘橋の戦い跡 乱闘橋供養塔

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- 岐阜・中濃
- 慶長5年(1600年)8月、西軍・織田秀信(織田信長の嫡孫・三法師)と東軍・池田輝政が戦い、橋は乱闘橋と呼ばれるようになりました。現在、このあたりにあった乱闘橋はありませんが乱闘橋供養塔があります。乱闘橋があった境川は、1185年の大洪水で流れが変わる前は木…
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- 長松城跡

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- 西濃
- 大垣市荒崎小学校付近が、竹中半兵衛の同族 竹中一族ゆかりの城「長松城」の跡と考えられており「長松城址」の標石が立てられています。ここは同城堀のうちの一部であり、古城図を見ると旧長松村の集落全体が、城郭の形を成しています。その城郭を囲むように曲がり角…
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- 金屋川原の合戦址 須賀神社・正覚寺

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- 西濃
- 西軍として南宮山後方に布陣していた長宗我部盛親は、関ケ原の合戦での味方の敗走を知り、戦わずして戦線離脱を図りました。伊勢方面へ抜けようと南へ進んだ毛利秀元・長曽我部盛親・長塚正家らは、養老町金屋付近で、遅れて関ケ原を目指していた東軍・松の木城主&nbs…
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- 赤坂宿本陣跡・本陣公園

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- 西濃
- 江戸時代、大名・貴族の旅館として設置された中山道赤坂宿の本陣。間口24間4尺、邸の敷地は2反6畝26歩、建物の坪数は、およそ239坪もあり、玄関・門構えの豪勢なものでした。文久元年10月25日、皇女和宮がここに泊したことは有名です 。(皇女和宮ゆかりの地)
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