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- 西濃
- 白拍子谷 <島津の退き口ゆかりの地>
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- 西濃
- 烏頭坂で重傷を負った島津豊久公を、家臣・川口運右衛門の意を受けた三輪内助入道一斉がこの地に案内したが、豊久公は自刃して果てた。白拍子谷は、伊勢街道(伊勢西街道)を入った名及集落の南を流れる堂木川の対岸にあり、小さな標柱が立つのみで、辺り一帯はひっそ…
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- 稲葉一鉄の墓・月桂院
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- 西濃
- 稲葉一鉄(「頑固一徹」という言葉の語源である説が有力)は、土岐家、斉藤家、織田家、豊臣家に仕えた。美濃国曽根城主。安藤守就、氏家直元と併せて「西美濃三人衆」と称され、特に稲葉一鉄(良通)は、三人衆筆頭とされた。大河ドラマ「麒麟がくる」にも登場。揖斐…
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- 神Fes!2022
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- 西濃
- コロナ禍が続く中、これまでの秋の一大イベント「GO!ご~どんとこい祭り」に代わり、文化祭と併せて、マルシェイベントを開催します。他にも、キッチンカーやワークショップ、ミニステージ、ばら菜グッズの販売、美術展などを開催します。
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- 細川忠興陣跡
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- 西濃
- 当代一流の文化人として知られ、千利休の高弟である「利休七哲」にも名を連ねました。豊臣恩顧の武将でしたが、石田三成とは仲が悪くこの関ケ原の合戦では最初から東軍として参戦。黒田隊とともに石田隊を果敢に攻め、首級130余を挙げたと言われています。
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- 脇坂安治陣跡
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- 西濃
- 賤ヶ岳七本槍の一人・脇坂安治は、関ケ原の合戦前から東軍・藤堂高虎と内応していました。朽木基綱・小川裕忠・赤座直保らとともに西軍として松尾山の麓に布陣し、脇坂隊の横には大谷吉継の隊が陣取りました。しかし、松尾山の小早川秀秋が寝返ると4隊(脇坂・朽木・…
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- 光顕寺
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- 西濃
- 教如上人が関ヶ原合戦、直前の慶長5年8月に徳川家康の陣中見舞いを行った。関東からの帰り道、墨俣の渡船場付近(長良川)で西軍の石田三成軍に襲われたが、安八・墨俣などの15か村の信徒によってかくまわれた場所とされている。その際に、もはやこれまでかと思い、…
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- 連理の榊
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- 西濃
- 国の天然記念物指定を受けたサカキで、推定樹齢300~400年の大木。根本は二幹に分かれていますが、枝が絡み合って一体になっていることから、連理の榊とわれています。関ヶ原合戦時には西軍の長宗我部盛親がこの辺りに陣を張りました。
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- 中山道と美濃路 垂井追分道標
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- 西濃
- 宝永6(1709)年に建てられた追分の道標は、「中山道」と「美濃路」の大切な分岐点。中山道250余りの道標中、七番目に古いものです。☆「美濃路」は、中山道の垂井宿から、東海道の宮宿(名古屋市熱田)までの約57.5kmの街道。徳川家康が、関ヶ原合戦後に凱旋の帰路とし…
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- 野古墳群
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- 西濃
- 大野町に点在する200基を超える古墳の中でも5世紀後半から6世紀初頭(今からおよそ1500年前)にかけて造営された野集落西方にある古墳群。この時代にこれだけの規模の古墳が密集して造営されることは稀なため、国の史跡に指定されています。古墳群成立当時は、もっと…
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- 権現のぞき
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- 西濃
- この辺り(大垣市河間)を「権現のぞき」と呼んでいたと伝えられています。関ケ原の合戦の時、大垣城に居た西軍 石田三成が、東軍の陣地「岡山(勝山)」を望む望楼を立てました。慶長5年(1600年)9月14日、関ケ原の合戦の前哨戦 杭瀬川の戦いにも使われま…
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- 美濃路の松並木
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- 西濃
- 垂井宿~大垣宿~墨俣宿~起宿~萩原宿~稲葉宿~清須宿~名古屋宿~宮宿と続く脇街道「美濃路」の起点。「中山道」と「東海道」を結ぶ、五街道に次ぐ重要な脇街道。☆「美濃路」は、中山道の垂井宿から、東海道の宮宿(名古屋市熱田)までの約57.5kmの街道。 &nb…
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- 栗原九十九坊跡(長宗我部盛親陣跡)
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- 西濃
- 栗原九十九坊跡は、栗原山の山頂部から東山麓に広がる大規模な寺院群です。栗原九十九坊跡との関係が想定される清水寺跡に近接しています。長宗我部元親の四男、父の死後、地家督を継ぐ。当初、東軍に与するつもりだったというが、行きがかり上、西軍に属することとな…
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- 関ケ原マーブルクラフト
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- 西濃
- 大理石・オニックスをはじめ世界貴金属を展示即売していて、マーブルアートの素晴らしさを一般に公開して広く知ってもらおうと、加工工場と展示場に見学者を迎えています。第1展示場は完成に何年もの月日を要する「本彫刻」を中心とした大規模な作品がズラリ。第2展示…
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- 奥平貞治の墓・碑
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- 西濃
- 家康の意を受けて西軍裏切りを約束していた小早川隊の監視をしていた奥平貞治。小早川裏切りの後、軍の先頭に立ち松尾山を攻め降りました。大谷勢との激戦に身を挺した結果、討ち死にします。奥平の様に、東軍で命を落とした武将は数少ないと言われています。この墓は…
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- 小西行長陣跡 北天満山
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- 西濃
- 約6000名の兵を率いて西軍につき、北国街道と東山道(中山道)の間に位置する北天満山に布陣。合戦開始とともに烽火をあげて味方に合戦の合図をしました。西軍諸隊が総崩れした後は、小西隊も敗走。小西行長は揖斐川町方面へ逃亡しますが自首し、京都で石田三成らとと…
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- 藤堂高虎・京極高知陣跡
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- 西濃
- 藤堂高虎・京極高知の両隊は、福島正則隊に続いて東軍の左翼縦隊の第2陣として進軍します。関ケ原の合戦・開戦後、不破関跡付近まで進撃し、大谷吉継の隊に属していた平塚為広と交戦。小早川隊の裏切りを合図に、共に大谷隊を破りました。<岐阜関ケ原古戦場記念館 …
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- 竹中公園の桜
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- 西濃
- 西美濃もみじ街道沿いにあり、谷汲踊保存会の会長を務めた竹中義雄氏により整備された施設公園。山の斜面を利用して桜などの木々が植栽されており、桜の開花時期や紅葉の時期には特に美しい景色が鑑賞できる。※毎年見頃は、4月上旬~4月中旬頃です。
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- 美濃路 墨俣宿本陣跡
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- 西濃
- この墨俣宿本陣跡には、本陣の由来を示す石碑と渡船場常夜燈があるだけです。慶長5年、伊達政宗が宿泊したこともあり「伊達様御本陣」とも言われていました。本陣は、代々澤井家が務めていました。
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- 輪中堤の桜
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- 西濃
- 輪中堤は、古くは洪水から家や水田を護るために築かれたものですが、現在では約700本の桜並木になっています。満開時は、美しい桜のトンネルとなりとなり、多くの人でにぎわいます。(見頃:3月下旬~4月上旬)
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- 史跡 西高木家陣屋跡
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- 西濃
- 近世陣屋として良好に残る石垣・墓所・地下機構・建造物などの現地遺構に加え、絵図類を含む膨大な量の古文書群が残り、近世幕藩領主の姿を豊富な資料によって現在に伝える全国的にも貴重な遺跡です。
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