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- 西濃
- 福束城跡 福満寺
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- 西濃
- かつて舟運の拠点だった城跡、福満寺は、寛正元年(1459)に僧盛道の開基の真宗大谷派の寺院で本尊は阿弥陀如来です。福満寺には、旧福束城を記録した「古版木」が残っています。版木の図柄は、中央に福満寺の本堂を画き、左に丸毛兵庫頭の墓、右に鎮守佐々木大神宮、…
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- 源平墨俣川古戦場 義円公園
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- 西濃
- 平安時代末期の養和元年(1181年)2月4日、「平清盛」病死。東国源氏は、勢を得て京へ攻め上ります。3月10日、源氏を迎え討つため、平家は「平重衡」を総大将として、杭瀬川(岐阜県大垣市)を渡り右岸の墨俣側(上下宿)に陣しました。一方、源氏の将「行家」(新宮…
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- 竹中半兵衛公生誕之地
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- 西濃
- 大野町公郷は秀吉旗下の天才軍師、竹中半兵衛重治の出生地と伝えられてきました。半兵衛の出生地には諸説ありますが、垂井町明泉寺から発見された古文書「過現二世牒」には、半兵衛重治は、天文13年(1544)、竹中遠江守重元の長子として、大御堂城(現大野町公郷)に…
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- 樫原城跡 津島神社
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- 西濃
- 樫原城跡は、令和2年1月の調査で「戦国時代後半の山城」と確認されました。地域に伝わる古い記録には、「永禄のころ、秀吉の長島攻めのとき、樫原に陣を置いた。永禄の頃、三輪三人衆の一人、佐渡が樫原に住んだ。」と書かれています。「明智氏一族宮城家相伝図書」(…
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- 白拍子谷 <島津の退き口ゆかりの地>
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- 西濃
- 烏頭坂で重傷を負った島津豊久公を、家臣・川口運右衛門の意を受けた三輪内助入道一斉がこの地に案内したが、豊久公は自刃して果てた。白拍子谷は、伊勢街道(伊勢西街道)を入った名及集落の南を流れる堂木川の対岸にあり、小さな標柱が立つのみで、辺り一帯はひっそ…
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- 瑞巌寺・小島頓宮の碑
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- 西濃
- 美濃国と尾張・伊勢の合わせてた『 三ヶ国の守護大名 土岐頼康 』と 父「頼清」の墓があります。また、南北朝時代、北朝の第4代・後光厳天皇(ごこうげんてんのう)を招いた「小島頓宮」の碑も境内にあります。揖斐川町:明智光秀ゆかりの地
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- 渡辺酒造醸
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- 西濃
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- 島左近陣跡
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- 西濃
- 関ケ原の合戦前日、兵500を率いて挑んだ岐阜県大垣市「杭瀬川の戦い」で勝利し、西軍の士気を高めた島左近は、笹尾山の麓に布陣します。そこで東軍からの猛攻を抑えますが、黒田隊の射撃により負傷し戦線を離脱しました。
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- 西首塚
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- 西濃
- 関ケ原一帯を領していた竹中重門は、関ケ原の合戦翌日、戦いによって壊れた神社や戦死者の処理を家康に命じられ、東西2カ所に首塚を造営しました。寛政5(1793)年に西首塚の敷地内に建立された観音堂には、馬頭観音や千手観音が安置されています。
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- 長松城跡
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- 西濃
- 大垣市荒崎小学校付近が、竹中半兵衛の同族 竹中一族ゆかりの城「長松城」の跡と考えられており「長松城址」の標石が立てられています。ここは同城堀のうちの一部であり、古城図を見ると旧長松村の集落全体が、城郭の形を成しています。その城郭を囲むように曲がり角…
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- 金屋川原の合戦址 須賀神社・正覚寺
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- 西濃
- 西軍として南宮山後方に布陣していた長宗我部盛親は、関ケ原の合戦での味方の敗走を知り、戦わずして戦線離脱を図りました。伊勢方面へ抜けようと南へ進んだ毛利秀元・長曽我部盛親・長塚正家らは、養老町金屋付近で、遅れて関ケ原を目指していた東軍・松の木城主&nbs…
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- 大御堂城跡
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- 西濃
- 今から450年程前に生まれ、戦国時代に豊臣秀吉の軍師として智将振りを発揮したものの、惜しくも志半ばの36歳にして病没した。竹中家ゆかりの八幡神社の脇に生誕の地を示す碑が建立されています。隣接する月真寺には、半兵衛の父、竹中重利の墓や、旗本の加藤平内歴代…
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- 長束正家陣跡
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- 西濃
- 豊臣秀吉の仕え、高い算術能力で活躍し五奉行の一人。関ケ原の合戦では、伊勢方面から美濃へ転戦し、本戦では、南宮山に陣を構えたが、吉川広家にはばまれ、合戦に参戦することができず、領地である近江水口へ撤退した。
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- 夜叉ヶ池周辺の紅葉
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- 西濃
- 福井県との県境、三周ケ岳の頂上に近い標高1099mに位置する「夜叉ヶ池」。 村を干ばつから救うため、夜叉姫がこの池に身を沈め雨を降らせたという伝説をもっています。神秘的な静けさに包まれた池で、毎年雨乞の行事が行なわれています。 飛騨・美濃紅…
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- 奥平貞治の墓・碑
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- 西濃
- 家康の意を受けて西軍裏切りを約束していた小早川隊の監視をしていた奥平貞治。小早川裏切りの後、軍の先頭に立ち松尾山を攻め降りました。大谷勢との激戦に身を挺した結果、討ち死にします。奥平の様に、東軍で命を落とした武将は数少ないと言われています。この墓は…
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- 北塚
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- 西濃
- 輪之内町東大藪の北部、大藪地内の田んぼの中に、一畝ほど小高く土を盛り上げた塚(現在は史跡として整備しています)。関ケ原の合戦の最初の前哨戦「福束城の戦い」において戦死した東西両軍の死者をあわれんで土地の人たちが埋葬して成仏を祈った塚。お堂の仏様には…
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- 桂川のホタル
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- 西濃
- 桂川はとても多くのゲンジボタルが乱舞します。見頃は6月上旬~中旬。大正~昭和時代にかけて、ここに生息するホタルを地元の小学校の少年赤十字団が皇室に献上したと言われています。
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- 池田屋酒造(株)
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- 西濃
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- 細川忠興陣跡
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- 西濃
- 当代一流の文化人として知られ、千利休の高弟である「利休七哲」にも名を連ねました。豊臣恩顧の武将でしたが、石田三成とは仲が悪くこの関ケ原の合戦では最初から東軍として参戦。黒田隊とともに石田隊を果敢に攻め、首級130余を挙げたと言われています。
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- 脇坂安治陣跡
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- 西濃
- 賤ヶ岳七本槍の一人・脇坂安治は、関ケ原の合戦前から東軍・藤堂高虎と内応していました。朽木基綱・小川裕忠・赤座直保らとともに西軍として松尾山の麓に布陣し、脇坂隊の横には大谷吉継の隊が陣取りました。しかし、松尾山の小早川秀秋が寝返ると4隊(脇坂・朽木・…
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