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- 戦国・城郭
- 瑠璃光禅寺 <島津の退き口ゆかりの地>

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- 西濃
- 瑠璃光禅寺(瑠璃光寺)本堂には、島津豊久公の位牌がおさめられているほか、ゆかりの梵鐘もあります。この寺の裏手の森の中には、島津塚と呼ばれる豊久公の五輪塔が祀られています。 ※島津豊久公自害の地「白拍子谷」までは、片道900m(徒歩約11分ほど)離れて…
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- 飯沼勘平長資の墓

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- 岐阜・中濃
- 飯沼勘平長資は、岐阜城主・織田秀信(三法師)に仕えた武将です。関ケ原の合戦の前哨戦、「米野の戦い」で多くの手柄を立てた当時21歳の武将(大垣 池尻城主の子)。東軍大将池田輝政の弟、池田長能と一騎打ちをして戦死しました。尚、南西約500mの場所には、米野の…
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- 素玄寺

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- 飛騨
- 1609年、初代高山城主であった金森長近(かなもりながちか)の菩提寺として、二代目金森可重(かなもりありしげ)が建立したもの。長近の法号にちなんで素玄寺となりました。金森家ゆかりの寺として知られ、長近が用いていた軍扇や采配等のほか、肖像画を所蔵していま…
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- 池田恒興・元助父子の墓

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- 西濃
- 織田信長の乳兄弟であった池田恒興は、信長の死後大垣城主となった武将。清須会議四宿老のひとりとしても著名です。子の輝政は父の後を継ぎ、大垣城主を経て、後に姫路城主となりますが、父子は長久手の合戦で戦死し、池田町に葬られました。池田のお茶は、そんな池田…
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- 細川忠興陣跡

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- 西濃
- 父・幽斎(藤孝)とともに当代一流の文化人として知られ、千利休の高弟である「利休七哲」にも名を連ねました。豊臣恩顧の武将でしたが、石田三成とは仲が悪く、この関ケ原の合戦では最初から東軍として参戦しました。というのも、徳川家康が会津征伐のため大坂を留守…
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- 田中吉政陣跡

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- 西濃
- 「田中吉政陣跡」の碑は「徳川家康最後陣跡」のすぐ隣にあります。以前は、関ケ原字甲斐墓という場所にあり、現在の陣場野に移されたのは昭和62年のことでした。『関原合戦図志』によると、合戦時の田中隊のはっきりとした布陣地はわかっていないようですが、田中隊は…
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- 久々利城跡

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- 岐阜・中濃
- 久々利城は、美濃に勢力を誇った土岐氏の支流である久々利氏の居城と伝えられています。正確な築城年代は不明ですが、築城された時期の上限は14世紀半ばの南北朝時代まで遡ることができます。天正11年(1583)、美濃金山城主である森長可の手により落城しました。築城…
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- 織田塚

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- 岐阜・中濃
- 天文16年(1547年)、織田信長の父・信秀が岐阜(当時は井ノ口)に攻め入った際、斎藤道三に大敗し、信長の叔父・信康を始めとした5,000人ともいわれる戦死者が出ました。この戦死者を弔うための織田塚が築かれました。現在、織田塚は円徳寺境内(浄泉坊)と岐阜市霞町…
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- 小里城跡

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- 東濃
- 土岐一族の支流である小里氏の居城で、岐阜県指定史跡。戦国時代末期には、小里光明らが織田信長の直臣として活躍しました。山頂部には小里城と安土城にしか見られない多角形の天守台があり「小里城は安土城を建てる前に試しに造られたのではないか」という興味深い説…
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- 本多忠勝陣跡

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- 西濃
- 徳川四天王である本多忠勝は、三方ヶ原・長篠の合戦等で数々の功を上げた猛将で勇猛なだけではなく知略も備えた名将でした。さらには、政治家としても力量を発揮し、特に人心掌握に努めて領民の敬愛を集めたといういわれもあります。その忠勝の陣跡は「十九女池」の西…
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- 大桑城へ はじかみコース(はじかみ林道登山口)

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- 岐阜・中濃
- はじかみ林道の峠にある登山口より古城山を登るコースの入口です。ルートの大半は緩やかで、距離も長くならないことから、古城山山頂からの雄大な眺めを楽しみたい方にお勧めです。山頂までの距離:約750m山頂までの時間:約20分~30分は必要登山口には、お手洗いはあ…
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- 龍護寺

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- 東濃
- 明智光秀公供養塔 明知遠山家の菩提寺である龍護寺に、明智光秀公の供養塔があります。 光秀公に関する碑は、「その悲痛な思いで」ことごとく割れるといった通説どおり、斜めに大きくひび割れが入っています。 毎年5月3日には、光秀まつりとあわせて、明智光秀公…
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- 松平忠吉・井伊直政陣跡

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- 西濃
- 関ケ原の合戦で、井伊直政は事実上の総大将で先鋒役の意識が強く、直政の娘婿で初陣でもある松平忠吉(徳川家康の四男)に手柄を立てさせたい一心でした。東軍先鋒は、福島隊と決まっていましたが、午前8時頃に福島隊の先頭隊長の可児才蔵の制止を振り切り、宇喜多隊…
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- 河田木曽川渡河の戦い跡・木曽川文化資料館

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- 岐阜・中濃
- 岐阜城城主・織田秀信(かつての三法師)を攻めるため木曽川を渡る東軍 (池田輝政・浅野幸長・山内一豊等) とそれを迎撃する西軍 (木造具政・百々綱家等) の戦いです。東軍は、木曽川渡河を決行、木曽川の中洲の小屋場島(現・各務原市)まで進軍し陣を張る。西軍は、…
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- 阿木城跡

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- 東濃
- 「城」と聞くと、天守や石垣が連想されることでしょう。しかし、こうした施設を備えるのは織豊期(もしくは安土桃山時代)から江戸時代に築かれた城です。阿木城はそれ以前に築かれた戦国時代末期の城跡です。戦国時代末期の美濃国東部は、織田信長と武田信玄による争…
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- すわがね(鶴岡山)

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- 東濃
- 「すわがね」は、鶴岡山の山頂732メートルに位置し、かつて織田信長軍の諏訪ヶ峯陣城があった場所です。空気が澄んだ日には、山頂から愛知県吉良の海が見えることから、明智町吉良見地区の語源にもなっています。近年は人が近寄らず荒れ果ててしまっていましたが、地…
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- 松倉城跡(国指定史跡)

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- 飛騨
- 松倉城とは飛騨地方南部を支配した三木氏の城で、豊臣秀吉の命を受けた金森氏が侵攻し、その後破城が行われたとされています。本丸・二ノ丸・三ノ丸の城中枢部を総石垣造りとしており、本丸の中心部には穴蔵状に石垣が囲んでいます。発掘調査によって、本丸内部の構造…
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- 米野の戦い跡

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- 岐阜・中濃
- 慶長5年(1600年)、池田輝政を中心とした東軍1万8千に対し、西軍3千のみの布陣。河田木曽川渡河の戦いの後、東軍は木曽川を渡り米野に上陸し西軍と激突しました。 戦いは、東軍大勝利に終わりました。これを米野の戦いといいます。 池田勢の一番槍の手柄を…
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- 今城跡

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- 岐阜・中濃
- 天文年間(1532~55)に小池刑部家継が築き、永禄年間に入り、美濃金山城に森長可が入城した後、小池氏は帰納し今城は使われなくなったと伝わります。横堀や喰い違い虎口といった複雑な構造を有し、大森城と構造的に類似しています。
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- 安藤守就戦死の地

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- 岐阜・中濃
- 本能寺の変、信長の死後、旧領地を取り戻すため安東(安藤)守就親子は挙兵し北方城を奪い再起を試みたが、新領主の西美濃三人衆のもう一人、稲葉一鉄(良通)に攻められ討死しました。この戦いを北方合戦と言います。(北方城はそのまま廃城となりました。)安藤守就…
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