岐阜の
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- 戦国・城郭
- 金幣社 八王子神社
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- 東濃
- 天照大神の八人の王子を祀り、平安時代の天暦三年(949)に創建された千年を超える歴史をもつ産土神。○柿本人麻呂社と明智光秀公手植えの楓万葉の歌人、柿本人麻呂を祭神とする社殿。伝承によれば、文武を志す明智光秀公が学問所には天神を八王子神社には人麻呂を祀り…
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- 今尾城跡
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- 西濃
- 東軍 市橋長勝の居城。長勝は、福束城の戦いで奇計をめぐらし、東軍を勝利に導きました。今尾小学校のあたりが本丸跡で、校内に石碑と案内板があります。南美濃の戦いでは、松ノ木城主・徳永寿昌と共に福束城(城主 丸茂兼利)を落城させます。今尾藩初代当主の竹腰…
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- 可児市観光交流館
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- 岐阜・中濃
- 山城めぐりの拠点施設及び観光案内所として、平成30年4月にリニューアルオープンしました。館内1階は、戦国時代の本陣をイメージした内装であり、陣幕や甲冑、槍や弓などが展示されています。展示の甲冑はすべて着ることができ、さらに、甲冑や忍装束を着て、美濃…
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- 乱闘橋の戦い跡 乱闘橋供養塔
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- 岐阜・中濃
- 慶長5年(1600年)8月、西軍・織田秀信(織田信長の嫡孫・三法師)と東軍・池田輝政が戦い、橋は乱闘橋と呼ばれるようになりました。現在、このあたりにあった乱闘橋はありませんが乱闘橋供養塔があります。乱闘橋があった境川は、1185年の大洪水で流れが変わる前は木…
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- 大桑城へ けんきゃくコース(古城山登山口)
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- 岐阜・中濃
- 山麓の古城山登山口より古城山を登るコース大桑城の遺構を見ながら山頂を目指します。ルートの一部に傾斜の急なところがあり、距離もあることから、体力に自信のある方にお勧めです。山頂までの距離:約2.1km山頂までの時間:約60分~90分バスでお越しの場合は、古城…
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- 赤坂宿本陣跡・本陣公園
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- 西濃
- 江戸時代、大名・貴族の旅館として設置された中山道赤坂宿の本陣。間口24間4尺、邸の敷地は2反6畝26歩、建物の坪数は、およそ239坪もあり、玄関・門構えの豪勢なものでした。文久元年10月25日、皇女和宮がここに泊したことは有名です 。(皇女和宮ゆかりの地)
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- 島津塚 <島津の退き口ゆかりの地>
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- 西濃
- 関ケ原の合戦の撤退戦「島津の退き口」で殿軍を務め、叔父 島津義弘の身代わりとなりこの地で討死した島津豊久公の墓所です。瑠璃光禅寺西の森(カンリンヤブ)の中に、島津塚(薩摩塚)と呼ばれる島津豊久公の五輪塔が祀られています。上多良公民館の向かい側にあり…
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- 黒田長政・竹中重門陣跡 / 岡山 ( 丸山 ) 烽火場
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- 西濃
- 標高164mの丘陵地・岡山に竹中重門は、黒田長政とともに陣を取り戦機を見て狼煙を上げました。ここは、戦況が把握しやすく関ケ原の合戦の「開戦の狼煙」を上げるには好適地。現在も山頂からは関ケ原のまちや辺り一帯を一望することができます。
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- 曽根城跡
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- 西濃
- 西美濃三人衆の稲葉一鉄(いなばいってつ)も城主を務めた曽根城は、関ケ原の合戦当時は西尾光教(にしおみつのり)が城主。光教が東軍に与したため、石田三成は近隣諸将に打ち壊しを命じます。その後、東軍が赤坂に進出すると、松平康長・水野勝成らが入城し、大垣城…
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- 禅幢寺
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- 西濃
- 永禄元年(1558)竹中氏が6000貫の領主となり、竹中半兵衛は、父重元と共に菩提山に城を築きました。天正7年(1579)播州三木(現在の兵庫県三木市)の陣において行年36歳の若さで病没した半兵衛の菩提を弔うために、その子重門がこのお寺に墓を移しました。お寺の背…
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- 米野の戦い跡
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- 岐阜・中濃
- 慶長5年(1600年)、池田輝政を中心とした東軍1万8千に対し、西軍3千のみの布陣。河田木曽川渡河の戦いの後、東軍は木曽川を渡り米野に上陸し西軍と激突しました。 戦いは、東軍大勝利に終わりました。これを米野の戦いといいます。 池田勢の一番槍の手柄を…
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- 竹中半兵衛公の像と垂井町観光案内所
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- 西濃
- 竹中半兵衛の銅像は、JR垂井駅北口ロータリーの他、竹中家陣屋門の前とタルイピアセンター内玄関、垂井町の3箇所でご覧いただけます。垂井駅北口ロータリーにある「垂井町観光案内所」では、垂井抜きに関ケ原の合戦は語れないなど各種パンフレットを入手でき、又、…
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- 大谷吉継の墓・湯淺五助の墓
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- 西濃
- 石田三成の盟友だった大谷吉継は、病身を押して関ケ原の合戦に参戦し、三成への『義』を貫きます。当初から疑っていた小早川隊の裏切りにも動じず応戦しますが、配下の脇坂隊ら4隊までが攻撃をしかけてくると軍は混乱、吉継は自害してしまいました。尚、垂井町ゆかり…
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- タルイピアセンター・歴史民俗資料館
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- 西濃
- 竹中半兵衛の生涯、中山道と美濃路の追分として賑わった垂井宿などを紹介している。また、古墳の石室を再現しているコーナーもある。
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- 卜全塚(氏家卜全の墓)【海津市】
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- 西濃
- 氏家卜全は、戦国末期の大垣城主で織田信長に仕えており、当時西美濃三人衆といわれた実力者の一人でした。元亀元(1570)年、伊勢長島で勢力を誇っていた願証寺の門徒六万余は織田信長に反抗していた石山本願寺の寺に応じ尾張に攻め込んで織田信興(信長の弟)を…
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- 大雄寺
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- 飛騨
- もとは吉城郡上広瀬村(現高山市国府町)にありましたが、1586年に金森長近によって、現在の地に移され、浄土宗の寺となりました。鐘堂は1689年に建てられた飛騨地方最古のものです。
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- 妻木城士屋敷跡
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- 東濃
- 妻木城のある通称城山の北側の山麓には、御殿と呼ばれる領主の館と家臣の武家屋敷が築かれ、万治元年(1658年)の妻木家断絶まで陣屋として存続しました。屋敷敷地を区切っていた石垣や石段、井戸などが現在も残されており、山麓の御殿跡および武家屋敷は「妻木城士屋敷…
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- 妙應寺
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- 西濃
- 妙應寺(妙応寺)縁起によれば、今須領主の長江重景公が、亡き母(妙応)が生前領民たちを苦しめた報いをうけて苦しんでいることを知り、母の供養のために創建したとされています。平成22年(2010年)に開創六百五十年大遠忌を勤め、「形と心」の両面を兼ね備えた禅の…
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- 杭瀬川古戦場
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- 西濃
- 慶長5年(1600年)9月14日、大垣城を出陣した西軍「島左近・蒲生備中(がもうびっちゅう)」ら軍勢約500人は、一隊を伏せて杭瀬川を渡り、東軍「中村一栄」隊を挑発、出陣してきたところを偽りの退去で誘い込み、これを打ち破りました。杭瀬川の広大な河川敷が、往時…
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- すわがね(鶴岡山)
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- 東濃
- 「すわがね」は、鶴岡山の山頂732メートルに位置し、かつて織田信長軍の諏訪ヶ峯陣城があった場所です。空気が澄んだ日には、山頂から愛知県吉良の海が見えることから、明智町吉良見地区の語源にもなっています。近年は人が近寄らず荒れ果ててしまっていましたが、地…
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