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- 美濃路 大浦(三ツ屋)の道標

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- 岐阜・中濃
- 「美濃路」は、中山道の垂井宿から、東海道の宮宿(名古屋市熱田)までの約57.5kmの街道。徳川家康が、関ヶ原合戦後に凱旋の帰路としてこの路を通ったことから、「吉例(きちれい)街道」とも呼ばれ交通量も多く重要な脇街道です。
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- 承久の乱合戦供養塔 (佛願院・前渡不動尊)

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- 岐阜・中濃
- 承久3年(1221年)6月6日、朝廷側と鎌倉幕府側は、まめどで戦いました。前渡・まめど(各務原市前渡・承久記では「大豆戸」・吾妻鏡では「摩免戸」と表記)が、選ばれた理由が、木曽川中でも特に浅く水量の多い夏場でも渡りやすい場所であったからだ言われています。…
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- 美濃路 起渡船場石灯台

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- 岐阜・中濃
- 美濃路の木曽川の渡しを「起の渡し」といい、この石燈台は、濃尾大橋の開通時(昭和31年)に、現在の場所へ移されました。明和7年(1770年)の「おこし川渡船」と刻まれたこの石燈台は、文学者の龍公美の漢詩が刻まれています。口碑によると、ある夜、渡船で難儀をし…
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- 美濃路 尾越の渡し

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- 岐阜・中濃
- ☆「美濃路」は、中山道の垂井宿から、東海道の宮宿(名古屋市熱田)までの約57.5kmの街道。徳川家康が、関ヶ原合戦後に凱旋の帰路としてこの路を通ったことから、「吉例街道(きちれいかいどう)」とも呼ばれ交通量も多く重要な脇街道です。
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- 長松城跡

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- 西濃
- 大垣市荒崎小学校付近が、竹中半兵衛の同族 竹中一族ゆかりの城「長松城」の跡と考えられており「長松城址」の標石が立てられています。ここは同城堀のうちの一部であり、古城図を見ると旧長松村の集落全体が、城郭の形を成しています。その城郭を囲むように曲がり角…
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- 金屋川原の合戦址 須賀神社・正覚寺

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- 西濃
- 西軍として南宮山後方に布陣していた長宗我部盛親は、関ケ原の合戦での味方の敗走を知り、戦わずして戦線離脱を図りました。伊勢方面へ抜けようと南へ進んだ毛利秀元・長曽我部盛親・長塚正家らは、養老町金屋付近で、遅れて関ケ原を目指していた東軍・松の木城主&nbs…
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- 夜叉堂 夜叉ヶ池伝説ゆかりの地

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- 西濃
- 夜叉ヶ池伝説ゆかりの夜叉堂には、早咲きの「河津桜」約20本が植えられています。見ごろは3月上旬から中旬で、濃いピンク色の花が鮮やかに咲き誇ります。夜叉堂には、日照りのために干上がった田畑を潤し住民を救った夜叉姫とその父親である安八太夫が祀られています。
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- 赤坂宿本陣跡・本陣公園

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- 西濃
- 江戸時代、大名・貴族の旅館として設置された中山道赤坂宿の本陣。間口24間4尺、邸の敷地は2反6畝26歩、建物の坪数は、およそ239坪もあり、玄関・門構えの豪勢なものでした。文久元年10月25日、皇女和宮がここに泊したことは有名です 。(皇女和宮ゆかりの地)
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- 赤坂港跡

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- 西濃
- 川を交通の手段としていた1900年初期ごろ、川港の赤坂港には、500艘を超える船が往来したと言われています。この地域は、古くから石灰や大理石産業が盛んで、産業の町としてにぎわいを見せていました。赤坂港会館は、明治8年赤坂の四辻にあった屯所(警察署)を復元し…
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- 津屋城跡

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- 西濃
- 慶長5年(1600年)8月19日、西軍 高木正家の津屋城は、敗走する高須城兵を追撃した東軍により落城しました。津屋城跡には3年後、高須城主 徳永寿昌の許しを得て本慶寺が移されました。
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- 駒野城跡

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- 西濃
- 慶長5年(1600年)8月19日、高須城を落とした東軍が攻め寄せたため、駒野城主 高木帯刀(たかぎたてわき)は、同族の高木貞友の説得を受けて開城しました。城山小学校の敷地内に本丸と土塁、二の丸の一部が残されています。※城山小学校の敷地内になるため、敷地内に…
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- 高須城跡

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- 西濃
- 慶長5年(1600年)8月19日、西軍 高木盛兼の高須城は、福束城を落とした徳永寿昌に欺かれて落城しました。高須城跡公園を含む周辺一帯が、城跡で散策コースも整備されています。
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- 今尾城跡

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- 西濃
- 東軍 市橋長勝の居城。長勝は、福束城の戦いで奇計をめぐらし、東軍を勝利に導きました。今尾小学校のあたりが本丸跡で、校内に石碑と案内板があります。南美濃の戦いでは、松ノ木城主・徳永寿昌と共に福束城(城主 丸茂兼利)を落城させます。今尾藩初代当主の竹腰…
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- 松ノ木城跡

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- 西濃
- 城主は、東軍・徳永寿昌。寿昌は関ケ原の合戦後、高須城主に栄進しました。松ノ木城の位置は特定されておらず、御霊神社のあたりと言われています。南美濃の戦いでは、今尾城主・市橋長勝と共に福束城(城主 丸茂兼利)を落城させます。
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- 兜塚

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- 西濃
- 野一色助義(通称:野一色頼母(のいっしきたのも))は、近江国の出身で豊臣三中老の一人「中村一氏」公の家老として8千石で仕えた人物です。関ケ原の合戦の時、「中村一氏」は、東軍に属しますが、関ケ原の合戦直前の7月に亡くなったため弟「中村一栄」と共に出陣…
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- 曽根城跡

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- 西濃
- 西美濃三人衆の稲葉一鉄(いなばいってつ)も城主を務めた曽根城は、関ケ原の合戦当時は西尾光教(にしおみつのり)が城主。光教が東軍に与したため、石田三成は近隣諸将に打ち壊しを命じます。その後、東軍が赤坂に進出すると、松平康長・水野勝成らが入城し、大垣城…
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- 合渡川の戦い跡

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- 岐阜・中濃
- 米野の戦いの敗報を聞いた石田三成は、岐阜城の後詰として合渡川(長良川)右岸の河渡に「重臣 舞兵庫(まいひょうご)」を派遣。慶長5年(1600年)8月23日、黒田長政・田中吉政・藤堂高虎ら東軍は、合渡川を渡河して西軍を攻撃、不意をつかれた西軍は敗走し大垣城に…
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- 竹ヶ鼻城跡

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- 岐阜・中濃
- 羽島市歴史民俗資料館(竹鼻別院前)の敷地内に竹ヶ鼻城跡の石標は立っています。応仁年間に武腰伊豆守が竹ヶ鼻城を築城したと云われています。その後、不破源六広綱が城主時代に、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)による「水攻め」があったことで知られてます。竹ヶ鼻城跡の…
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- 加賀野井城跡

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- 岐阜・中濃
- 慶長5年(1600年)8月22日、木曽川下流の尾越に向かった福島正則・細川忠興・黒田長政・田中吉政・藤堂高虎らの東軍約16000は、対岸に西軍が柵を設けて待ち構えているため、さらに下流の加賀野井から密かに渡河し、城主不在の加賀野井城を瞬く間に落としました。加賀…
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- 福束城跡 福満寺

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- 西濃
- かつて舟運の拠点だった城跡、福満寺は、寛正元年(1459)に僧盛道の開基の真宗大谷派の寺院で本尊は阿弥陀如来です。福満寺には、旧福束城を記録した「古版木」が残っています。版木の図柄は、中央に福満寺の本堂を画き、左に丸毛兵庫頭の墓、右に鎮守佐々木大神宮、…
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