岐阜の
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- 南泉寺

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- 岐阜・中濃
- 永正14年(1517年)に当時の守護・土岐政房(頼武・頼芸の父)が、仁岫宗寿を招いて「土岐氏の菩提寺」として開山しました。頼武の長男である頼純が、天文16年(1547年)に亡くなった際は、この寺に葬られたといい寺内には頼純の墓があります。頼芸が大桑城主の時代は…
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- 明智光秀公学問所と天神神社

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- 東濃
- 万ヶ洞にある天神神社は、明智光秀公が若かりし頃、京都嵯峨天竜寺の雲水・勝恵という学僧を招き、ここで学問に精進したと言われています。祭神は菅原道真公であり、京都北野の天満宮からの分祀と伝えられています。
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- 夜叉堂 夜叉ヶ池伝説ゆかりの地

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- 西濃
- 夜叉ヶ池伝説ゆかりの夜叉堂には、早咲きの「河津桜」約20本が植えられています。見ごろは3月上旬から中旬で、濃いピンク色の花が鮮やかに咲き誇ります。夜叉堂には、日照りのために干上がった田畑を潤し住民を救った夜叉姫とその父親である安八太夫が祀られています。
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- 米野の戦い跡

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- 岐阜・中濃
- 慶長5年(1600年)、池田輝政を中心とした東軍1万8千に対し、西軍3千のみの布陣。河田木曽川渡河の戦いの後、東軍は木曽川を渡り米野に上陸し西軍と激突しました。 戦いは、東軍大勝利に終わりました。これを米野の戦いといいます。 池田勢の一番槍の手柄を…
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- 大正村資料館

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- 東濃
- 大正村資料館町のシンボル「銀行蔵」と南隣りの「大正の館」を含む一郭がその中心です。館内は、明治から大正時代の教科書や蓄音機などが展示されております。なお、館内には地元名産品などを取り扱う売店もありお土産なども購入できます。銀行蔵木造百畳敷き4階建て…
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- 白拍子谷 <島津の退き口ゆかりの地>

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- 西濃
- 烏頭坂で重傷を負った島津豊久公を、家臣・川口運右衛門の意を受けた三輪内助入道一斉がこの地に案内したが、豊久公は自刃して果てた。白拍子谷は、伊勢街道(伊勢西街道)を入った名及集落の南を流れる堂木川の対岸にあり、小さな標柱が立つのみで、辺り一帯はひっそ…
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- 瑠璃光禅寺 <島津の退き口ゆかりの地>

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- 西濃
- 瑠璃光禅寺(瑠璃光寺)本堂には、島津豊久公の位牌がおさめられているほか、ゆかりの梵鐘もあります。この寺の裏手の森の中には、島津塚と呼ばれる豊久公の五輪塔が祀られています。関ケ原の合戦、伊勢街道から薩摩への道は、まだまだ続く!! ※島津豊久公自害…
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- 勝地峠 <島津の退き口ゆかりの地>

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- 西濃
- 標高183mの峠の麓で島津豊久隊は、最後の捨て奸(がまり)を行い、川上四郎衛のごうれいを受けた柏木源藤は、追撃する井伊直正の狙撃に見事成功しました。その後、東軍の追撃はようやく中止。島津豊久公は、残兵の助けを借りながら伊勢西街道「勝地峠」を越えました。
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- 千代保稲荷神社【海津市】

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- 西濃
- "おちょぼさん"の愛称で親しまれている千代保稲荷神社。今から約500年前の室町時代、森八海が須脇の里を開き、義家公から授けられた源氏の霊壺や宝剣等を祀ったのが始まりとされています。商売繁盛や家内安全の神様として知られており、年間120万人の参拝者…
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- 飛騨古川まつり会館

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- 飛騨
- 毎年4月19日・20日にしか見ることができない「古川祭」を、いつでも体験できるのが飛騨古川まつり会館です。“動”と“静”が織りなす古川祭の迫力と魅力を、臨場感あふれる4K映像でご紹介します。館内には、実際に祭りで使われる本物の屋台3台を…
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- 雲龍寺

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- 飛騨
- もとは720年に創建された妙観寺(みょうかんじ)という寺院でしたが衰退し、1395年頃、曹洞宗雲龍寺として再建されました。本能寺の変で戦死した飛騨国主 金森長近(かなもりながちか)の長男 長則(ながのり)の菩提寺であり、1590年頃に長近が建物を修営したと伝わ…
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- 史跡 西高木家陣屋跡

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- 西濃
- 近世陣屋として良好に残る石垣・墓所・地下機構・建造物などの現地遺構に加え、絵図類を含む膨大な量の古文書群が残り、近世幕藩領主の姿を豊富な資料によって現在に伝える全国的にも貴重な遺跡です。
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- 落合砦(千畳敷公園)

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- 東濃
- 明知城が宝治元年(1247年)に築城されたころ、この千畳敷台地に落合砦を築いたと伝えられています。伝承によれば、明智光秀公はこの砦で生まれ、産湯として使ったとされる井戸が残されています。
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- 北天満山・小西行長陣跡

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- 西濃
- 小西行長は約6000名の兵を率いて西軍につき、北国街道と東山道(中山道)の間に位置する北天満山に布陣し、合戦開始とともに烽火をあげて味方に合戦の合図をしました。西軍諸隊が総崩れした後は揖斐川町方面へ敗走しましたが、その後自首し、京都で石田三成らとともに…
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- 乱闘橋の戦い跡 乱闘橋供養塔

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- 岐阜・中濃
- 慶長5年(1600年)8月、西軍・織田秀信(織田信長の嫡孫・三法師)と東軍・池田輝政が戦い、橋は乱闘橋と呼ばれるようになりました。現在、このあたりにあった乱闘橋はありませんが乱闘橋供養塔があります。乱闘橋があった境川は、1185年の大洪水で流れが変わる前は木…
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- 美濃路 尾越の渡し

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- 岐阜・中濃
- ☆「美濃路」は、中山道の垂井宿から、東海道の宮宿(名古屋市熱田)までの約57.5kmの街道。徳川家康が、関ヶ原合戦後に凱旋の帰路としてこの路を通ったことから、「吉例街道(きちれいかいどう)」とも呼ばれ交通量も多く重要な脇街道です。
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- 長寿院盛淳の墓・琳光寺

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- 西濃
- 島津義弘公の家老・長寿院盛淳は、島津豊久公に次いで捨て奸(すてがまり)を行い、義弘公から賜った陣羽織を身につけ、「我こそは義弘也」と名乗り、主君の身代わりとなって討ち死にしました。琳光寺には、盛淳公を悼んで宝暦治水の薩摩藩士が刻んだ五輪塔と、子孫が…
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- 炉畑遺跡

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- 岐阜・中濃
- 縄文時代中期から後期の集落遺跡で、発掘調査では10基の竪穴式住居跡と、多くの縄文土器、石器が発見されました。現在は、縄文時代の風景や生活スタイルを見学できる緑豊かな公園として整備されています。
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- 瑞巌寺・小島頓宮の碑

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- 西濃
- 美濃国と尾張・伊勢の合わせてた『 三ヶ国の守護大名 土岐頼康 』と 父「頼清」の墓があります。また、南北朝時代、北朝の第4代・後光厳天皇(ごこうげんてんのう)を招いた「小島頓宮」の碑も境内にあります。揖斐川町:明智光秀ゆかりの地
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- 伏見宿本陣跡碑

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- 岐阜・中濃
- 現在は伏見公民館が建っていますが、本陣跡碑や数軒の格子の家並みが往時の様子を偲ばせています。本陣跡碑の傍らに建てられた境界傍示杭は、もとは伏見の西坂にあり「是より東尾州領」と刻まれており、これは西坂から東が尾張藩領であったことを示しています。
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