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- 夜叉堂 夜叉ヶ池伝説ゆかりの地
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- 西濃
- 夜叉ヶ池伝説ゆかりの夜叉堂には、早咲きの「河津桜」約20本が植えられています。見ごろは3月上旬から中旬で、濃いピンク色の花が鮮やかに咲き誇ります。夜叉堂には、日照りのために干上がった田畑を潤し住民を救った夜叉姫とその父親である安八太夫が祀られています。
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- 黒田長政お手植えの銀杏の木・五明稲荷神社
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- 西濃
- 天正6年(1578)、羽柴秀吉が播磨平定を進める中三木城攻めのおり、織田家家臣の荒木村重が摂津で謀反を企てました。村重と旧知であり、秀吉の部下であった黒田官兵衛が説得に当たりましたが、逆に石牢に幽閉されてしまいます。黒田官兵衛が裏切り村重に寝返ったと判断…
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- 中馬街道 うかれ横丁
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- 東濃
- この路地は、中馬街道の一部で、生糸生産がさかんな頃は、旅人や馬子を相手に酒やうどんを売る店が並んでいました。昔懐かしい面影を残す通りです。道路を跨ぐ渡り廊下のある家もあります。うかれ横丁は、「 受験に受かれ!」の言い伝えがあり受験生にお勧めだそうで…
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- 安国寺恵瓊陣跡
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- 西濃
- 安国寺恵瓊は、毛利輝元公を西軍の大将にまつりあげることに成功する。関ケ原の合戦では、西軍として南宮山に布陣。吉川広家等の裏切りにより傍観軍になる。合戦後、石田光成公らとともに京都六条河原で斬首されました。
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- 関ケ原古戦場 開戦地
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- 西濃
- 西軍は、笹尾山に「石田三成」、松尾山に「小早川秀秋」という鶴翼の陣を形成。東軍は、関ケ原盆地中央で「福島正則」を先方とした魚鱗の陣を形成。9月15日 「松平忠吉・井伊直政」が宇喜多隊に発砲したことを機に天下分け目の戦いが始まりました。
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- 宇喜多秀家陣跡 南天満山
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- 西濃
- 約1万7千という西軍の主力部隊を持ち、副総帥として関ケ原の合戦に参戦した宇喜多秀家。開戦直後に攻め込まれたという史実からも、激しい戦いが繰り広げられた場所だと考えられています。
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- 福島正則陣跡
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- 西濃
- 福島正則は、石田三成と対立して東軍へ加担。開戦後、宇喜多隊に襲いかかり死闘を繰り広げました。現在、陣跡が残る春日神社境内には、関ケ原合戦屏風にも描かれた樹齢800年の「月見の宮・大杉」が、どっしりとそびえ立っています。また、関ケ原合戦時に福島隊の戦…
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- 勝川家
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- 東濃
- 「江戸城下町の館 勝川家」は、平成15年8月にオープンしました。勝川家は屋号を「松屋」といい、江戸末期から台頭した商家です。江戸後期の建物で、木造2階建て2軒の建物からなっています。室内は、書院・茶室・使用人部屋などがあり、往時の暮らし向きを伝えてい…
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- 小西神社
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- 西濃
- 1600(慶長5)年関ヶ原合戦に敗れた小西行長は春日中山へ逃げ、観音寺で匿われたが、捕らえられ、中山に騙されたと思いこんだ行長は強い恨みを持った。それから度々大火が起こるようになり、これを小西行長の祟りと恐れた中山では墓を作り、寺に祀って大改装を行…
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- 織部展示館
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- 岐阜・中濃
- 美濃国山口・現在の本巣市山口に生まれた古田織部は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた武人。茶の世界に興味を持つようになったのは、信長の美意識や茶の湯を政治に利用する姿を目にし、茶の湯の持つ力の大きさを痛感したからといわれている。千利休の愛弟子とな…
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- 美濃路の松並木
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- 西濃
- 垂井宿~大垣宿~墨俣宿~起宿~萩原宿~稲葉宿~清須宿~名古屋宿~宮宿と続く脇街道「美濃路」の起点。「中山道」と「東海道」を結ぶ、五街道に次ぐ重要な脇街道。☆「美濃路」は、中山道の垂井宿から、東海道の宮宿(名古屋市熱田)までの約57.5kmの街道。 &nb…
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- 富有柿発祥の地 富有柿の原木
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- 岐阜・中濃
- 富有柿は、全国の甘柿の中でも最優秀品種として栽培されています。 その名の由来は、居倉村(現在の瑞穂市居倉)にあった在来種、居倉御所(御所柿)の中で味・色・形状共に優れている柿に着目した居倉の福嶌才治(ふくしまさいじ)氏がこの接穂を得て増殖し、新…
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- 池田恒興・元助父子の墓
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- 西濃
- 織田信長の乳兄弟であった池田恒興は、信長の死後大垣城主となった武将。清須会議四宿老のひとりとしても著名です。子の輝政は父の後を継ぎ、大垣城主を経て、後に姫路城主となりますが、父子は長久手の合戦で戦死し、池田町に葬られました。池田のお茶は、そんな池田…
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- 上石津郷土資料館
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- 西濃
- 国史跡の西高木家陣屋跡に建つ資料館。上石津で出土した石器、民俗資料、動植物の標本を展示するほか、「島津の退き口」の紹介もしています。
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- 明智光秀公学問所と天神神社
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- 東濃
- 万ヶ洞にある天神神社は、明智光秀公が若かりし頃、京都嵯峨天竜寺の雲水・勝恵という学僧を招き、ここで学問に精進したと言われています。祭神は菅原道真公であり、京都北野の天満宮からの分祀と伝えられています。
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- 薩摩池 <島津の退き口ゆかりの地>
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- 西濃
- 島津隊が、布陣した際に軍用として使用した小さな池です。古来より水が枯れたことはないと言われています。これより、伊勢街道を走り続ける!!
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- 中山道 ひし屋資料館
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- 東濃
- 中山道大井宿の有力な商家であったひし屋古山家住宅を改修・復元した施設です。 古山家は享保年間(1716~1735年)から幕末まで約150年間もの間、大井村の村役人や庄屋を務めていた旧家で、穀物・小間物・反物・塩の販売と酒造りで財を成しました。 この「ひし屋」は…
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- 諸之木峠展望台
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- 岐阜・中濃
- 皇女和宮通行の際、この地に休憩用の御殿が建てられたことから、「御殿場」と呼ばれるようになったと伝えられています。現在は展望台が建てられており、中山道を歩くウォーカーの休憩施設として利用されています。
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- 富加町郷土資料館
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- 岐阜・中濃
- 現存する日本最古の戸籍の故地として注目されている。奈良東大寺正倉院には12通の古代戸籍が残り、中でも大寶貳年御野國半布里戸籍は54戸1119人の氏名、続柄等が書かれ、ほぼ完璧な形で残っています。そのレプリカを展示、発掘出土品、古民具、農機具等が展示…
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- 和泉式部廟所
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- 東濃
- 情熱の歌人とたたえられた平安時代の女流歌人和泉式部は、旅する途中この地で病に倒れ、現在の鬼岩温泉で湯治したものの亡くなってしまったと伝えられています。石碑には「ひとりさえ渡れば沈むうき橋にあとなる人はしばしとどまれ」と記されています。
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