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- 戦国・城郭
- 稲葉一鉄の墓・月桂院

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- 西濃
- 稲葉一鉄(「頑固一徹」という言葉の語源である説が有力)は、土岐家、斉藤家、織田家、豊臣家に仕えた。美濃国曽根城主。安藤守就、氏家直元と併せて「西美濃三人衆」と称され、特に稲葉一鉄(良通)は、三人衆筆頭とされた。大河ドラマ「麒麟がくる」にも登場。揖斐…
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- 於牧の方の墓所

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- 東濃
- ここは、戦国武将・明智光秀公のご母堂 於牧の方(おまきのかた) の墓所です。天正三年、明智光秀は信長の命により丹波八上城を包囲しました。しかし城は容易に落ちず、やむなく和睦の交渉にあたり、母・於牧の方を人質として差し出しました。ところが、信長は光秀と…
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- 山内一豊陣跡

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- 西濃
- 旧中山道沿いにある「山内一豊陣跡」は、大きな松と山内家の三つ葉柏の軍旗が目印です。慶長5年(1600年)に徳川家康に従い会津の上杉景勝討伐の軍に参加した一豊は、関ケ原の戦いに際し、居城の掛川城を明け渡しての出陣となりました。岐阜・大垣の兵と戦い、野上に…
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- 開元院

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- 東濃
- 土岐頼元が創建したと伝わる曹洞宗寺院。本尊は、観音菩薩で土岐市の定林寺の本尊を移したと伝わっています。この本尊は、岐阜県の重要文化財となっています。
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- 金屋川原の合戦址 須賀神社・正覚寺

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- 西濃
- 西軍として南宮山後方に布陣していた長宗我部盛親は、関ケ原の合戦での味方の敗走を知り、戦わずして戦線離脱を図りました。伊勢方面へ抜けようと南へ進んだ毛利秀元・長曽我部盛親・長塚正家らは、養老町金屋付近で、遅れて関ケ原を目指していた東軍・松の木城主&nbs…
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- 長寿院盛淳の墓・琳光寺

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- 西濃
- 島津義弘公の家老・長寿院盛淳は、島津豊久公に次いで捨て奸(すてがまり)を行い、義弘公から賜った陣羽織を身につけ、「我こそは義弘也」と名乗り、主君の身代わりとなって討ち死にしました。琳光寺には、盛淳公を悼んで宝暦治水の薩摩藩士が刻んだ五輪塔と、子孫が…
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- 脇坂安治陣跡

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- 西濃
- 関ケ原の南方、現在の名神高速道路と黒血川との間、松尾山のふもとに「脇坂安治陣跡」はあります。脇坂安治は朽木元綱・小川祐忠・赤座直保とともに西軍として布陣しましたが、小早川秀秋隊が寝返ると4隊とも大谷隊へ攻撃をしかけ、最終的には東軍を勝利に導きました…
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- 連理の榊

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- 西濃
- 国の天然記念物指定を受けたサカキで、推定樹齢300~400年の大木。根本は二幹に分かれていますが、枝が絡み合って一体になっていることから、連理の榊とわれています。関ヶ原合戦時には西軍の長宗我部盛親がこの辺りに陣を張りました。
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- 法雲寺 (法雲禅寺)

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- 西濃
- 美濃国最後の守護、土岐頼芸は岐礼郷の東春庵で生涯を終えました。墓が法雲寺門前にあります。
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- 雲龍寺

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- 飛騨
- もとは720年に創建された妙観寺(みょうかんじ)という寺院でしたが衰退し、1395年頃、曹洞宗雲龍寺として再建されました。本能寺の変で戦死した飛騨国主 金森長近(かなもりながちか)の長男 長則(ながのり)の菩提寺であり、1590年頃に長近が建物を修営したと伝わ…
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- 福束城跡 福満寺

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- 西濃
- かつて舟運の拠点だった城跡、福満寺は、寛正元年(1459)に僧盛道の開基の真宗大谷派の寺院で本尊は阿弥陀如来です。福満寺には、旧福束城を記録した「古版木」が残っています。版木の図柄は、中央に福満寺の本堂を画き、左に丸毛兵庫頭の墓、右に鎮守佐々木大神宮、…
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- 仲深山砦

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- 東濃
- 明知城の南、万ヶ洞を隔てた尾根の先端に立地し、東西二つの曲輪群からなる。東側の曲輪は、背後(東端)を二重堀切で画し、北側には帯曲輪が巡る。その東端は横堀状になり 3 本の竪堀を設けている。堀切を隔てた西側の曲輪は、周囲に帯曲輪を巡らせ、さらに 1 段低い…
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- 妻木城士屋敷跡

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- 東濃
- 妻木城のある通称城山の北側の山麓には、御殿と呼ばれる領主の館と家臣の武家屋敷が築かれ、万治元年(1658年)の妻木家断絶まで陣屋として存続しました。屋敷敷地を区切っていた石垣や石段、井戸などが現在も残されており、山麓の御殿跡および武家屋敷は「妻木城士屋敷…
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- 乱闘橋の戦い跡 乱闘橋供養塔

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- 岐阜・中濃
- 慶長5年(1600年)8月、西軍・織田秀信(織田信長の嫡孫・三法師)と東軍・池田輝政が戦い、橋は乱闘橋と呼ばれるようになりました。現在、このあたりにあった乱闘橋はありませんが乱闘橋供養塔があります。乱闘橋があった境川は、1185年の大洪水で流れが変わる前は木…
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- 島津塚 <島津の退き口ゆかりの地>

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- 西濃
- 関ケ原の合戦の撤退戦「島津の退き口」で殿軍を務め、伯父 島津義弘の身代わりとなりこの地で討死した島津豊久公の墓所です。瑠璃光禅寺西の森(カンリンヤブ)の中に、島津塚と呼ばれる島津豊久公の五輪塔が祀られています。上多良公民館の向かい側にあり、目印にな…
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- 大塚権太夫の塚

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- 岐阜・中濃
- この塚には、米野の戦いで討死した東軍の武将「一柳直盛」老臣「大塚権太夫」が葬られていると伝わっています。この戦いは、木曽川を渡河する東軍「池田輝政」ら兵約18000と米野付近に布陣した西軍の岐阜城主「織田秀信」の兵約3200によって関ケ原の合戦の前哨戦とし…
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- 長松城跡

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- 西濃
- 大垣市荒崎小学校付近が、竹中半兵衛の同族 竹中一族ゆかりの城「長松城」の跡と考えられており「長松城址」の標石が立てられています。ここは同城堀のうちの一部であり、古城図を見ると旧長松村の集落全体が、城郭の形を成しています。その城郭を囲むように曲がり角…
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- 竹ヶ鼻城跡

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- 岐阜・中濃
- 羽島市歴史民俗資料館(竹鼻別院前)の敷地内に竹ヶ鼻城跡の石標は立っています。応仁年間に武腰伊豆守が竹ヶ鼻城を築城したと云われています。その後、不破源六広綱が城主時代に、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)による「水攻め」があったことで知られてます。竹ヶ鼻城跡の…
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- 小原城址

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- 岐阜・中濃
- 小原集落の中央部にある白山神社の奥山一帯に城の遺構が残っています。城の規模は小規模で、小倉の姓を名乗る一族が城主であったと伝えられています。普段は神社西側の小倉屋敷(跡)で生活をし、有事のときのみ城を利用していた言われています。現在でも曲輪、堅堀、…
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- 鶴ヶ城跡

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- 東濃
- 明智光秀を輩出した土岐一族によって築城されたと伝わり、岐阜県指定史跡にも登録されています。天正10年(1582年)、織田勢の甲斐への侵攻(武田征伐)の際に信長とともに明智光秀も鶴ヶ城に立ち寄ったといわれています。鶴ヶ城は、武田氏に対する織田方の中心的な砦でし…
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